万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

文豪の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

今日は本屋らしく、本の話をしたいと思う。しかし毎回抽象的な話をするのではなく、形あるもの、日常的な物について話してみたいと思うと難しいもんで、実際自分の言おうとするものが伝わるのか、一回疑ってみると怖いもので瞬時に自信がなくなることはある。だから物に、そこにあるものには話をさせてもらうことはたまには楽だ。
本に置き換えると、毎回毎回自分の意見を述べるのではなく、先人たちの偉業を指して、自分の言いたいことに近いものを選び取り、引用するといい。

つまり「文豪」という存在は、私にとって発ったそれだけの存在だ。偶然にも引用の数、読まれる数が多かっただけだから、もはや自分らの世間の常識にとって取り外しのきかないものになったからこそ、それを話題に出して自分の言い分を表すことに適した文章を書いた人たち。偶然ではなくそれこそが彼らの持つ技量の表れという言い方もできるが、それなら自分の言い分を表している作家がほかにいないということになり、それはやはり違う。だからいくら優れた文章を書けるとしても、それが世に通じるかどうかはやはりある程度偶然の産物だろう。

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しかし、我々の常識に「文豪」はいる。古本屋に行けば「世界文学全集」「古典日本文学全集」などの文字が当然のように目に付くだろう。日本人なら読んでいなくとも芥川や漱石などの名前を知らないものは少ないし、世界に名をとどろかせたシェークスピアーやアリストテレスなども文豪の類だろう。それらは作家として忌むべきものであったり、目指すべき目標であったり、ともかく避けて通れない存在なのだ。私も子供の頃はその名を聞き、今は早いがいつかは読んでみたいと思ったりした。しかし結果として読んだ数は少なかった。

近頃それは少し変わった。文豪だけに入手しやすいはずだが、日本学科に入っても読まなかったところに、先輩の残した、筑摩書房出版の「現代日本文学全集」の何冊が手に入り、旧字体のままの漱石、谷崎、三島が手に入った。しかし、気づいてみたらそれらはすでに時代遅れになっていた。自分の読書のために使っていたBookMeterにそもそもこの59年版の古書は入っておらず、読んでいてもそれを現代風に記録することは困難だ。

文豪の時代はもはや終わったのかもしれない。今の時代は誰でもがBestsellerを書ける時代なのかもしれない。少なくとも、私が子供の頃に思い描いていた、自分の読書生活は実際のものとはかけ離れており、古くても90年代のものをばかり読んでしまう。それは悪いことではないし、それに感動することはないこともないが、それでは将来的に現代に生きる作家の誰々が教科書に載るべきかと聞かれたら迷うだろう。村上春樹は確かにその名を世界にとどろいているが、彼だけが私が思い描いていた文豪だったのか、とは思う。