万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

哲学の話をしよう

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昔からそうだと思うんですけど、どうやら私は他人より懐疑的なほうなのだ。疑り深いという感じではなく、ただ単に物事に文句をつけるというか、疑問に思うというか、そういうことがよくある。その度に人にその疑問をぶちまけると、往々にして「なぜそんなつまらないことを疑問に思ったりするの?」みたいな感じで不思議がられることが多かったのだ。

昔からこうなのだけれど、高校のときに哲学の科目を取ったことでいよいよ拍車がかかったのだ。先生もそれなりに色々考えさせることを言うし、授業の内容は一応昔の哲学者の意見や考えを理解し、それを言語化することに重点を置いていたんだけれど、それを論争したり、今現在に当てはめたりすることもしたものだ。同じ風に色々一緒に考えてくれる人もいた。心身は同一か二極か、自由意志はあるのか、神がいるとしてもそれをどうやって証明できるだろうか、有名どころを一応全部抑えていたように思う。そのなかで面白いと思ったのが「実存主義」だった。

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実存主義といえばサルトルだが、実に単純明快な考え方なのだ。つまり、人間にとって「やらざるを得ない」規定がないことを規定としているものだ。人間の選択することは全部身勝手で、何を選択しても正しい。それと引き換えに、選択したものには責任を持つべきなのだ。何か理由をこじつけて、「選択肢がなかった、こうせざるを得ない」という考え方を不義という。

サルトルの著作にこのような逸話がある。フランスのある青年は戦争期に生きていて、唯一残ったばあやと一緒に暮らしている。そしてある時、かれは徴兵される。ばあやの介護に勤しむか、それとも国のために戦うべきか、煩悶することになる。しかし、サルトルはこの逸話に正しい答えはないという。どちらかといえば、選んだら選んだでそれが正しい答えである。不義であるのは、弁解して「せざるを得ない」と思うことなのだ、という。

このような考え方は勿論難しいし、皆が皆それを実行するにはかなり思い。つまり、自分は自分の人生の主人公であって、正しい答えのないままにただただ自分のやってきたことを正義と思わざるをえない。それでもって楽な道を選んだ場合「ほかの選択肢がなかった」といういいわけは通じない。責任を持つのはただただ、自分だけ。

難しいではあるが、そこに真の生活があるようにも思う。自分のやることは自分のため。こうせざるを得ないと観念して本当はやりたくないことをやるのではなく、楽しいほうへ行ってもいいわけだ。しかし楽しいだけでは生きていけないから、楽しいほうへいけるように模索し続けることを余儀なくされる。新しい可能性を探さずにはいられない。そうでもしない限り、逆に不義になるからだ。自分が自分で自分のために選んだ未来に行くためには、まずそれがくるべきだと思う。楽なほうばかりではないけど、楽しみが待っているほうへもがくべきのが人間だと思う。

しかし、それはまた別のときの話。