万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

翻訳の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

言語を学ぶ人は多種多様で、言語学習の目的もまた十人十色。しかし、学ぶとしても避けて通れないのは「翻訳」という言葉なのだ。会話しか学ばないのだとしても、授業で日本語なりアラブ語なりサンスクリット語なり英語なりやっていたら、どこかの節で「この文章を訳しなさい」と言われることはあるだろう。翻訳中心の授業は教育的に効率が悪いという意見もあると思うが、さすがに最初からその言語のロジックにのっとって文章を作ったり読んだりすることはできないからその脳内構造を作るためには有機的な進化が必要であって、翻訳がその第一歩であるだろう。

f:id:yorozuyawakarando:20180528185708j:plain

ゆえに、最終目的が翻訳でなくとも、糸口として翻訳を使わないものはおそらくほぼいない。それこそ天才でない限りそのまま言語を使用することはできないのだ。そして、往々にしてそのせいで日本語は録に喋れないのに翻訳をする人もいる。しかし、翻訳とは文章を訳すだけのものではない。まさに、翻訳とは「わけを翻す」ことであるから、日本語というシステムの中から別の言語に置き換えるのが翻訳の意義なのだ。

つまり何がいいたいというと、日本語から日本語に訳することも、ある意味可能だ、ということだ。文語で書かれた文章だとか、候文だとかを現代訳するのも翻訳であるし、落語のせりふを分かりやすく説明するのもまた翻訳だろう。だから本質的に翻訳は文章だけのものでもなく、通訳とはそう違わない。通訳はその意味で言えば「わけを通す」、つまり意思疎通を図ることであって、まさに二つの言語構造の間をとりもつものだ。

私自身も翻訳や通訳の経験はそれなりにあって(直に自分の翻訳した学術書も出版されるぐらいだが)その上で言うと、テキストの翻訳は往々にして口頭の翻訳(つまり通訳)より易しいと見られがちなのだ。なぜなら訳するものが多いからだ。言葉だけではなく、その裏に隠された意図だとか、表情だとか、ボディー・ランゲージも含まれるだろう。だから初期の言語学習者は「通訳がだめなら、翻訳で手を打とう」と思う人がいるが、勿論そんなことはない。むしろ、翻訳は言語外の意図をつかみにくいものだから、本当の意味でのテキストの翻訳は通訳より難しいということがいえる。

関連して言うと、それを勘違いするのは勿論学習者だけではなく、翻訳を依頼する人たちも同様だ。「翻訳」という作業の実態が中々見えづらいものだから期待しすぎるか、しなさすぎるか、ゆえに対価も決まりにくいものだ。頭脳労働に対する対価はそもそも相場が決まらない物だろうけど、もともとの作者の意図が分からなければそれが正しく翻訳されているかどうかも試しようがないわけだ。

結局は翻訳者自身の人間の質で翻訳の質が決まるようなものだから、そこに期待するしかないが、少なくとも「翻訳で手を打とう」なんて考えは間違っていると思う。やるなら心してかかるべきだ。何せ扱うのはアイディアなのだ。

しかし、それはまた別のときの話。