万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

国際交流の話をしよう

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留学を重ねてきた身として、もちろん自ずといろんな国の人のあったりすることもある。日本人を始め、タイ人、モンゴル人、スェーデン人、韓国人など去年だけでもいろんな国の人と交流をしたり遊んだり話したりして、仲良くなったつもりだ。また、大学のサークルでも特に色んな日本人と出会ているし、留学生交流会とか英会話団体とか、交流や語り合うことを目的としたところもすくなからず活動してきた。

しかし、もちろん仲良くなった人もいれば、面識はあってもそれっきりめっぽう話さなくなった人たちの方もかなり多い。これでは「交流」とは一体何なのだ、ということになる。そもそも、長い間「交流」という言葉をどう翻訳すれば日本語のニュアンスが保持できるのか、ずっと考えてきたのだけれどいまだにわからないのが正直なところだ。少なくとも、交流はかなりあいまいな概念だと思う。しいて言うなら、婚活パーティーが結婚相手を探すための集まりなら、交流パーティーが友達候補を探すための集まりなのかもしれない。そのため、交流していてもどうにかならない場合の方がむしろ多い。

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京都大学での私のクラスには21人が在籍しており、13か国(だったはず)から来ている人々が集められ、一年間同じ授業をとっていた。タイ、韓国、チェコ、スェーデン、オランダ、ベルギー、モンゴル、中国、ハワイ(アメリカ)、ベトナムポーランド、フランス、ロシアだから確かに13か国。これはこれですごいと思う。よさこいの方でも今度の国際企画は7か国だけれど、よくこれだけ集まったと思う。

これらの国は勿論経済状況も文化状況も、人間同士の付き合い方も違いはいろいろある。オランダではパートナーシップという、結婚せずに法的に結婚のような扱いをされる法的措置はあるのだが、これが日本、ましてや中国や韓国ではまだまだ考えられない。だから、「世の中にはこんな考え方をする人もいる」という点では、交流という行為に大いに意義があるように思う。一年も一緒に過ごせば(もちろんテラスハウスみたいにはならなくとも)ある程度みんながお互いの違うところ、見習うところを見つけ、ともに成長してゆくのだからそれだけでも留学のし甲斐はあったと思う。

しかし、ここで一つ条件が付くのだ。つまり、ただ色んな人を一か所に集めるだけでは事足りないということだ。仕切る人がいなければ、どうにもならない。一か所に人を集めて、「では、交流を始めてください」といわれても、異国の人間同士がそのまま意思疎通できるとは限らない。だからこそ何かイベントやアクティビティーを通じて(旅行だとか、観光だとか、飲み会だとか遊びだとか)交流をすることが主流なのだろう。

ただし、異国同士でも、例えば大学だとか、同じスポーツなどをやっている場合、同じような人たち、同じ環境の人たちが集まりがちなものだから、考えモノなのだ。真の交流とは勿論環境も育ちも何もかも違うものだけれど、その分意思疎通を図るのが難しくなるのだから、結局同じ者同士で集まることになる。

「日本語会話クラブ」なるものを仕切ろうとする過程で、私もまたこれを実感する。実際問題、集まるのが自分と元々交流のある者なのだ。なかなか踏み出せないのが人間なものだから、交流を推進したいものとしてとりあえず自分の統率能力というか、仕切る能力を上げなくてはと思う。

しかし、それはまた別のときの話。