万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

書店の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

名前の通り、私は比喩でいうなら自分のことを本屋のような人間だと思っている。いや、おそらく私だけではあるまい。人間はみんなそれぞれ中身をもって、接することでその本棚に入った物語を引き出せる。それが社交というものの意義だと常々思う。

人間がこのようにできているなのだから、勿論人間の外にも同じような知識の容器のようなものの存在が必要となってくるのは仕方ない。なにせ人間は記憶というものを内蔵しているといっても、それは曖昧模糊で五感の一つでは言い表せない場合が大半であるし、また容量をオーバーしてしまうことも度々ある。そしてハードが壊れたら読めないという、それこそ電子書籍端末のようなものだ。そこで紙媒体は歴史の大半、人間の記憶、考え、言語表現を収めるために使われてきた。アレキサンドリアの図書館からブリティッシュ・ライブラリー、歴史にその名を遺す図書館なら周知のはずだ。

しかし、人間は巧妙なもので、物の価値を定めるために「金」というものを生み出した。そして金という、分かりやすく物理的な「価値的判断基準」のようなものの上に、商売というものが成り立つ。つまり、書店の由来なのである。勿論物々交換という方法もあるわけで、金以前に商売無し、というのは成り立たないかもしれぬが、金の発明で商売に拍車がかかったのは否めない事実であろう。そしてそれは本だけではなく、様々な業界にその爪痕を残している。

私は出版物を研究する上で一つのテーマにしようと思うのは、デジタル時代における書店である。この言い方だとどうしても電子書籍を思い浮かべるのだろうけど、私はむしろ物的な書店を見るようにしている。デジタル技術(というのがなんなのかも勿論議論で、甲論乙駁があるわけだが)が発達し、新しい本の形、流通や売買の形が可能となった現在、本屋はそれをどう取り入れているのか。日本は昔ながらの書店(丸善紀伊国屋)なども多いが、統計を見てみると時代の波の影響は否めず、トップを占めるのは他でもないTSUTAYAである。

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もちろん、TSUTAYA最強説ばかりを唱えるつもりはないが、少なくとも今日代官山の店舗を訪問して刺激を受けたのは事実だ。こんな本屋は十年前にはおそらくなかた。勿論洒落ていて内装も豪華なものだからある程度金銭も絡んでいるわけだけれど、新しい技術を巧妙に取り入れたところも強い。フランチャイズ化(他の一般の書店も条件付きで同じ看板でTSUTAYAの名前を出させる)というやりかたは逆に古来からあるのだが、店内の検索システム、書籍と雑貨と内装を合わせた本屋の内装、一つのTSUTAYAの中に違和感なくスターバックスファミリーマートなどの有名チェイン店を併合した存在にするなど、およそ本屋とは思えない本屋は、今はある。

しかし、それは今のところは「ある1」だけで、おそらく客層も狙ってのことだろう。本好きについて偏見を述べたいわけではないが、おしゃれで人が多く、品ぞろいも非の打ちどころのないものだと、ある種の本好きにとっては迷惑でしかないのかもしれない。私も刺激は受けるが、実際物を買うまではかなり迷っていたのだ。ブックオフなどでの買い物が余程進む。しかし、会社側から見たら、おそらく使われる金額はTSUTAYAの方が上なのだから、意外とここもTSUTAYAの価値と言えるだろう。

しかし、それはまた別のときの話。