万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

「文化の違い」の話をしよう

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さて、帰国だ。帰ってみるあっけらかんとしていてまるで日帰り旅行で東京に遊びに行ったぐらいの感覚だけれど、現実はそう甘くはない。時間も確実にたっているし、それよりも金銭がチビチビと減ってしまうもんだからけちなオランダ人としてはそろそろいい心地がしなくなっていたところだ。だからおそらくここらへんで旅行も潮時だったろう。

ねむかくてしょうがない、かと思えば却ってそのまま荷物の整理に入り、メールの整理、予定の整理など、明日やっても言いぐらいのことをやってしまう。先月が忙しすぎたせいか、元々母譲りでそういう性格なのか、一回やり始めるといっぺんに周りが見えなくなるほど仕事を身の回りに引き込み、全部一発でやりたがる。そんなことは勿論のこと不可能なのだが。自分はこういう人間なのだ、とずっと思ってきたわけでもない。それよりも自分は派の年毎にそれなりに性格が左に寄ったり右に寄ったり、偶には斜め上に行ったりしているようにさえ思う。これは原因はいくらでも思い当たるが、やはり「誰とどこで何を話していたのか」という単純明快なものがそれなりに強力と思える。

当たり前のことだが、オランダ人と日本人とは違うのだ。差別な表現をするつもりはないが、明らかに「日本人にはこういうタイプの人が多い」というのはあるし、やはり一つの国に住んでいるとその国の常識に染まりやすい。私もオランダ人ながら、「オランダ人はけち」という常識を持ってしまっている自分にあきれることがある。それもあって日本にいる間の自分とこっちの自分、日本語をしゃべる自分とオランダ語や英語をしゃべる自分とは微妙なズレが生まれてしまう。以前この題を取って日本語弁論大会に出てみたのだが、やはりこういう見方に共感できる人は多いようだった。いうなればこれは「文化の違い」と称してもよい。

文化の違いは確実にある。先週経験しただけでも、よさこいをオランダでやるのと、日本でやるのとわけが違う。土台が違うのだ。人材も違うし、人と人、また人と踊りとの向き合い方も違う。そしてやはり、留学経験者の向き合い方は、いくらか日本人のそれと似ている部分がある。しかしだからと言って一緒にはならない。なぜなら日本人の間でも、文化の差はいくらでも生まれそうなものだからだ。国の文化で別けるまでもなく、「大学」「会社」「バイト」などの共通意識を日本内で別けたとしても、それなりに大きな差が出るはずだ。

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この「差」を意識し、差別し、別けることは決して悪いことではない。別けるだけなら、の話だが。なぜなら人は往々にして、文化というたいそうな言葉に魅入られて、「これぞ真の日本文化」「日本の原風景だ、ふるさとなのだ」と吹聴する。もちろん、それはオランダでも、アメリカでもやりかた次第で同じようにされているはずだ。しかしこうした覇王的な文化論を、いったい誰が得するというのだ?すくなくとも、私は得していない。おそらく読者諸君も似たり寄ったりだろうと思う。

人と人の間、国と国の間に差があって、その差を見て価値を見出すのは大変によい。なぜなら実際に違うからだ。しかし不当に違うといったり、本来一緒であるものを別けるのは、族で言う差別に当たる。「みなちがくてみないい」という、小学校3年生じみた文章は、あるいは心理かもしれない。しかし文化は一つではない。複合的で、多側面的で、変動の激しいものだ。人間一人の中身の話にしても、人間一人に有り余る分の常識があると私などは思う。それを人格という文化に定める必要はあるにせよ、人間がそれを一人で定めるには荷が重すぎやしませんか?いやはや、少々長話が過ぎたようだ。

しかし、それはまた別のときの話。