万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

自立の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

一日生きて、ご飯食べて、仕事やバイトしたり、移動したり、娯楽を楽しんだりして、我々は日常を送っている。それは当たり前なことで、とても幸せなことだと思う。しかし勿論そんな生活は色々な人、ものや機関の上で成り立っている。道徳や社会科の先生のような言い方に聞こえるけど、一人で生きていこうという考えがそもそも傲慢なのではないか、と考えるときもある。

それでも同時に「自立したい」という漠然とした夢はいつしか自分の胸の中に秘めているということは、大学2年、長崎に行く前のあたりから気づいていた。自慢ではないが、うちの家はそれなりに裕福で浪費もせず、家のローンも無理でない範囲のものでちびちび払っているようだから、何不自由なく育てられた、とは自分のことなのだろう。しかし、いずれかは社会に出て、自分で所帯をもてなくてはならないというのが暗黙の了解である。それが例え一人だけの所帯でも、だ。オランダの家族では大黒柱というよりは共働きなんだけれど、それはそれで親の話であって、子供の立ち居地は別にある。

すなわち、自立したいといえば、親からの自立ということは一番早く心に浮かぶ例なのだろう。巣立ち、自分の家から出て新しい居場所を作る。両親なしとて自分はやっていけると、胸張って生きて生きたい、多少見苦しくてフリーターやりながら安アパートに住んでいても将来の夢があっていずれかは大物になる、と自分勝手な願いを抱く自分がいる。

片方、親の方から見て、名に不自由なく育ててきたつもりで、大学生になったからといって実家に住んでいるわけだから、そこにそもそも自立というのはありえない。自立とはある意味孤立であって、実家に住んでいては家賃もローンも払わずに生きているのだからそうは行くまい。いくら家事を手伝ったり、家賃代わりに両親に金を月々払ったりしているとて、それは自立じゃなくて共立である。

では、自立の条件とは何なのだろう?そう悩んでいた時期がしばらく続き、今度は長崎の留学が来て、同じように京都で留学することになる。しかし留学していて初めての一人暮らしして、向こうの大学で勉強していても、疑問が沸き起こるばかりである。親元を離れていても自分が生活費に使っているお金は自分が働いて得たものではなく、両親からもらった貯金だとか、日本政府からもらった奨学金だとか、どう曲げても「自分の金」ではないからだ。

そもそも自分の自立の定義をここまでの随筆から漉き取っていくと、「自分が自分のために働いて得た金や物を使って生活する」という、どう見ても自己中きわまる定義になってしまう。等価交換の最終形態なのだと自分ながら思う。

f:id:yorozuyawakarando:20180702071510j:plain

想起するとこれはまさに大学二年の冬頃読んでいたAyn Rand氏の「肩をすくめるアトラス」の影響であろう。資本主義の集大成というか、理想的な形というか、そのような世界で孤高に生きていく人々を思い描いた小説である。自分にはそう見えるが、上記の通りこの「孤高な自立」は甚だ自己中心的な生き方になってしまう。

これまでこの生き方に惹かれながらも否定しようとして、否定しきれないまま惹かれつつ生きてきた。畢竟親の支援なくしてここまで上り詰めることは無かったのだろうけど、理想の生き方を目指して言語化を試みるたびにやはり意見が衝突してしまうのは度々あることだ。もしかするとこの社会のなかでは、誰かの世話になりたがらない、というのは主流に対する反逆なのかもしれない。

では、巣立ちする時期はいつ来るのか?必死に働くフリーターの姿を思い描き、私の今の生活より至極真っ当な生き方に見えてならない、と今日も誰かの世話になりながら思う。いつけじめをつけて本当の自立にたどり着けることやら。手に届いたときにはもはや、自分の意見も理想も変わり果てていなければいいのだが。

しかし、それはまた別のときの話。