万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

推理の話をしよう

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いつもいっている通り、私は推理小説が好きだ。というよりも、ミステリー全体がすきなんだけれど、やはり一番読んでしまうのは日本語の本格派推理小説だったりして、なんだかんだで推理という概念のことを考えてしまうことがある。しかし今日を以って一回断言したい。私は推理が嫌いだ、と。

というのは、勿論小説の中の推理と、現実世界での推理と呼ばれるものの間に、大きな違いというか、隔たりがあるように思う。小説は物語として一回閉じてしまっている世界。もちろん読者の想像に任せられる部分があるにせよ、推理小説の基本として、全ての情報が公平に与えられている、というのが本格派の基本なのだ。

しかし現実は無論そうは行かない。終わってから気づくことなんてざらにあるし、気づかずとも一応解決のような結果に導かれることもあるのだろう。現実世界で全ての情報が確定することは無いわけで、情報の確定状態を変更できる万能存在などは無い。だから、偽情報に我々は往々にして魅せられがちで、メディアなどに撹乱される羽目になる。小説の中のそれとはちがく、無差別に、不特定多数の人間を相手に、だ。

それに、現実世界では推理が当たったからといって、ことがうまく運ぶ、というわけでもないだろう。これは度々小説の方にも出てくる話題なのだけれど、正論が必ずしも通じないと同様に、真実を逆転裁判風に突きつけただけじゃ解決するはずも無い。ましてや間違っていたらそれこそ混乱しか生まず、傷つく人も必ずいる。劇的で人間関係が複雑な問題だからこそ、快刀乱麻を断つが如く、のようにはさすがに行かない。

それこそ、今日などは友達に彼女がいると知って、与えられた話の断片から推理を立ててみてぶつけてみたのだが、特に嬉しくもなんとも無かった。「伊達に探偵小説ばかり読んでいるわけではない」なんて捨て台詞のようにはいていていまさらながら自己嫌悪に位置いてしまう始末だ。

または高校一年のとき友達を見て感と会話の端々から「この日とふられたんだ」と気づいていうっても、だれも幸せになれやしない。それこそ女性に「あ、君今生理なんだ」とうっかり言葉にしてしまうようなものだ。気づいていても言わないほうがいいことなど、この世の中に転がっているものだろう。

それでも私はなんとなく理屈っぽくて天邪鬼性質が中々抜けなくて、推理を立ててしまい、自分の好奇心のままに人に推理をぶつけてまう。こんなことやって、自分ははたして幸せになるものか、とたまにはっと気づきながら。推理は推理小説の世界の中にとどめておこう。小説が世界を模す必要など、どこにも無いだろう。

しかし、それはまた別のときの話。