万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

チャットアプリの話をしよう

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このブログも気づけば60回を過ぎており、そろそろマンネリ化と思うこともあれば、何日分の発想も出てきたりして、クリエーティビティーって大変だなーなんて他人事のように思う。実際今のところ記事を書いて生活しようとも思っていないから、他人事だろうけど。それで今日は友達から「オランダと日本の共通点について書いて欲しい」と陸絵sとをもらったのだが、これが中々大変そうで居間のところお預けとさせておく。

その代わり、今日は現代人ならではの話をしたいと思う。我々は日々生きていて、皆が接しているものといえば勿論ほかの人間だ。コミュニケーションとはある意味人間の生きる意味とも言える行為と思っている自分がいるから、私も例外ではない。しかし、留学を繰り返し、日本と行き来したり、また実家に住んでいて大学にいる時間がまちまちな自分にとって、ラインなどのチャットアプリがいつの間にか不可欠になっていた。

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考えてみれば、高3のときにできた友達に一人、未だにSMSサービス(要は普通の携帯同士のメールかしらん)を使っていた子がいたことに当時でさえ驚いていたから、これは案外ずっとまえからの常識なのだろう。ともかく、自分の世代の人たちは電話もさることながら、単純な用や雑談などにアプリを使うのが通常であるように思う。

しかし、その使い方もばらばらなのも事実だ。私は好奇心からか、軽い携帯電話依存症からか、かなりまめにメールを返したりするが、それはやはりコミュニケーションで一番大切なこと、情報交換を考えてのことだ。なかなか事情があって現実時間でしゃべる相手でも、ラインなどを使えば時間のラグはあっても会話はできる。

それも無辺に、無間に。つまり、もはや物理的な距離も時間的な隔たりも関係なく、だ。それはおおげさにせよ、郵便のみの時代と比べて大違いだ。ナポレオンの時代なら、一時間の差で戦場が一変していたことだろうけど、今では瞬時に呼んで返事ができるものだからかなりすごいものだ。

しかし勿論、ラインなどを読まない人もいる。メッセージを書くより、ボイスメッセージを好むという方も私は少なからず知っている。そう考えればチャットアプリも欠点だらけなものだ。いくら時間的制限は無いにせよ、端末は制限されているし、個人が一つの瞬間にできることんは限られている。手がふさがっていても話はできるが、電話に出ることもメッセージを読むのも同じ理由で無理である。

それに、皆が皆同じものを使っているわけでもない。オランダやヨーロッパ諸国ではWhatsappが主流であり、Singaporeもそのようだが、日本はLINE、韓国はKakaoTalk、中国はWechatなどがあり、Telegramなどのサービスもあり、お互いにまずチャンネルを合わせる必要がある、というところだ。ましてやFacebook Messengerなどは、企業方針に反対の人は使わないと断言したりするわけで、けっしてチャットもいい事尽くめとはいいがたい。

だからコミュニケーションを取るには相互理解が必要であり、話には話に礼儀があると同様に、チャットにもチャットの礼儀があるのだろう。これが中々規定化されないのは、音を出してしゃべるより機密性が高いからなのだろう。相手が違えば、礼儀も違う、なんてことはざらにあるだろう。だから毎日同じタイミングでチャットを返す、という状態が生まれることもあるが、これが案外ほほえましいと私などは思う。

しかし、それはまた別のときの話。