万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

人間の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」

いきなりだが、人間とは何だろう?なにをもってして人間、人間性、人間らしいとみなすのだろうか?「理性的」という意見もあれば、「残虐」という言葉も同時に出てくるかもしれない。人間の基準を規定しようとすることはとてもじゃないが難しいことだ。
私はどちらというと校舎を押すほうの人間だが、これこそ「脳が脳の能力を決めようとする」行為と同様で内的矛盾がありそうだ。

どういう風の吹き回しかと聞かれれば、今朝方ようやく半年の間ベッドの横においていたYuval Noah Harariの「サピエンス」を開いて、一気に読み進んだのがきっかけだ。これが去年一世を風靡した学術と娯楽の間にある、最近の流行の軽学術本(造語)の代表ともいえるもので、イメージ的にはTED TALKの書き下ろしのようなものだけれど、これがやはり面白い。

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Harariの言なら、この図も人間が一つの種であるという錯覚を強調してしまった、というのだろうけど、今回だけは勘弁して欲しい。

どういうことかといえばまず人間の見方がまず徹底している。初めに人間という種の生物学的な特徴を境界条件と設定しておき、その中で空回りすることを文化と呼び、人間が農業改革以前からやらかしてきたことを論じている。環境破壊など現代の問題だ、人間はHomo Sapiensだけか、Homo Sapiensだけが優れていた種だ、などの学術的錯覚に真正面から向き合い、論破していく氏の声が聞こえて競うな書き方なのだから、文才もやはりある。神は二物も与えた、というような感じだ。

すなわち、人間はいつしか地球に誕生し、脳を駆使し道具を工夫し、連携を取るためにフィクションを作った、という氏の点はかなり面白い。つまり、人間特有の発明は道具でも日でもなく、物理世界とは別の、全ての人間、または人間の群れに共通される意識、精神世界なのだ。精神世界を共有することで人間は価値判断を生み出し、「信じていい」「信じてはだめ」と、ほかの人間を品定めできるようになる。やがてはその精神世界を理由に物理世界を改造しようとする。人間同士で一度終わっていた精神世界が、物理世界にその威力を及ぼす結果となる。これは確かに、すごい発明だ。

なぜなら私が今伝えている情報も、この精神世界の存在なくしては全く意味を成しえない。そもそも、「言語」というものがここまで発展してきたのも、その精神世界があってこそできたことだ。ただし、精神世界を伝道することが人間の人間たるゆえんであるのなら、それは果たしてどういうことなのだろう。いいことなのか、悪いことなのか、全くハンゼンとしない。

確かに、人間は今の地位に付く他に、多くのものを壊し、犯し、潰してきたのだろう。しかし、その壊すという行為を「悪」と呼ぶのもまた人間であって、そうなってくるとただの種ぐるみの自己嫌悪大会になってしまいそうでどこか違う気がする。いらぬ同情をかけたくない、かけて欲しくもない、と豪語する私はそこらへんはやはりニヒリストに近い感じで、そこで「善悪」を決めるのは早計だと思う。

けれど、Harari氏のような意見もいてほしいともまた思う。なぜなら、精神世界云々以前に、もっとも人間らしいものがあると思う。それは多様性だ。人間も元々一つの種にあらず、同じような生活をしていた人々ばかりでもなく、同じように考え、行動する動物というはずも無い。現在そうなのだとしたらそれこそ例の精神世界を伝承した結果だろう。それがいいか悪いかは答えずじまいではあるが、残り300ページに期待しておこう。なんせ一生分子か読んでいないのだから。

しかし、それはまた別のときの話。