万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

親戚の話をしよう

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あなたにとって、親戚とは何だろう?現代に生きる人間にとって、「従兄弟」という関係性にいったいどういう意味合いを見出すのだろう?言語が認知上のシステムである以上、認知する必要の無いものが段々認知から消え、やがて言葉としても使わなくなる運命にある。勿論今すぐ、というわけではないのだけれど、遠くない未来になくなることもあるのだろう。

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こういう言い方をすれば、情がないだとか、家族のことは嫌いなのか、と問われかねないが、これらのシステムもやはり言語的認知上で意味を持つ言葉であって、現実世界に存在するわけではない。もちろん私が従兄弟と呼んでいるあの人たちは現実世界に物理的な身体を持って存在しているわけだけれど、「従兄弟」という、我々をつなぐ関係性だけはどうみても脳の産物なのだ。関係性がある、それが普遍的であると我々人間が皆認識しているから存在するのだ。いや、もしかすると、少数民族で「従兄弟」という関係性を全く関与していない認知システムもあるのかもしれないが。

こうやって御託を並べるのも、実際自分が家族や親戚に対してどうありたいのか、分からないなりに考えている結果なのだ。みな誰かの子供に生まれ、育てられ、恩を受け世話してもらい、育っていった。少なくとも、ブログなんて代物を読んでいる時点そうだと推測するだけの材料はあるのだ。家族だから、親戚だから、定期的に、習慣的に集まって会話をしたりご飯を一緒にしたりするのは私にとっても当たり前だけれど、だからと言ってそれが特別楽しいというわけでもない。当たり前のことだが、親戚は選べないからだ。

では、人間は自由に選んでいると思ってこそ、楽しいと思うのかというと、それもそうでもない。親戚で集まってわいわいすることも当然あったのだが、ある程度強制的であることも否めない。世の中、自分から進んで遠くにいる親戚を尋ね、一緒に遊ぼうと思う人は多分1割にも満たない。それも理由としては、人間同士で馬が合った、というだけなんだろう。それでは、合わなかった9割の人はどうだ?

親戚で集まるのが旧時代の廃墟に居座るような習慣と感じてしまうのは、こういうところだ。答辞は必要性があって生まれた習慣も、だらだらと続けば違うものに変化してしまう。やがてはこの違和感に気づいた人たちは親戚で集まらないことに対して逆に罪悪感を覚えるという、矛盾的な気持ちにさらされる。かといって、じゃ楽しいことを一緒にして仲良くすればよいかといえば、実際遠くに住んでいるからそもそも限度がある。
いい結果に導こうとする習慣も、時間が経てば一人の人間にとっての足かせとなる。

それでも、こうして書くと自分がいやな人間になってしまっている気がする。みんなで仲良く楽しくできればそれが一番なんだけどねーなんて甘い言葉を信じたいのだ。

しかし、それはまた別のときの話。