万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

アニメの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

ここで一つまた、「あれ、これやってなかったっけ?」と思わせてしまうような話題だが、どうやら実際逆にやってはいないようだった。それこそ、先日紹介させていただいた「空中ブランコ」に出てくる、陳腐な恋愛物作家のように。。ここから分かることといえば、やはりだれしもなにかの強迫観念を抱えいて生きているのだろう、という当たり前活動でもいい結論だけなのだろうけど。それでは、前置きはほどほどにして...

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日本学科にいて、アニメに触れずにいる人間はおそらくいない。環境自体から見て、
無関心活無関係であろうとする人はいるのだけれど、それは結局苦手意識から生まれるから関係性に他ならない。それより、多くの人たちはアニメから日本学科に入ったか、それに近い形で入ったのだ。中国学科、勧告学科などでも、アニメを全く見ない人のほうが少ないんじゃないかな?それだけこの狭い世界の中でアニメが広がっているものだ。

しかし、勿論それだけではない。コスプレ、お絵かき、アニメーション全体、アニメに縁取るものなどからもファンが集い、前に紹介したアニメコンベンションに集会するのだ。それこそ、コスプレ姿の人間が交通機関に乗ったりして大移動するものだから、変な目で見られたり、テレビ取材を受ける羽目になったりしたものだ。自分ではないけれども。

これはどちらかというと私の高校生時代の話、つまり今から7年前前後なのだ。一番アニメに無我夢中で、新鮮感があった時期なのだ。アニメが新しい世界への入り口で私の知らない景色、感情、関係を分かりやすく、手ごろに見せてくれる。これが今でもアニメの一つの利点であると思う。バイトサイズ、つまり一口というか、さっと見ることができるのだ。特に見たいという物が無くとも、衝動に任せてみちまって、24分ほどの一話みて、よいものであれば、それでもういちころなのだ。

気づいたら周囲をも飲み込み、アニメがあるのが当たり前な世界になってしまった。量産産業になったのは、果たしていいか、悪いか?少なくとも、新鮮感は綺麗さっぱり抜き去られたようだ。

現代人は皆そうだと思うけれど、新しいものを欲しがる。アニメが面白いから新しいアニメを欲しがって、アニメに飽きたと思ったら新しいジャンルを見つけてそれを発掘しようとする。一時期はハマるが、やがてまた飽きる。ただし娯楽がないと人生しんどいものでして、アニメ意外に娯楽を求めてドラマを見始める。ゲームに目覚める。新しいほうへ、新しいほうへ。

アニメが最初にでてきたころ、それはどんなものだったのだろうか。人々の意識の中、それはどう認識されていたのだろうか?絶え間なく続く「新しいもの」の中の一つなのか、よく分からないものか、そもそも大衆に認識されないものか、それとも忌むべき悪い兆候を示すものか?

さて、それでは今の私自身はといえばそのどれ物間に宙ぶらりん状態になってもはやアニメが好きかどうか分からない、という感じだ。当時無我夢中で色んなものをみたりしていたのが不思議なくらいだ。一つのものに執着を持てる人間が心底うらやましくて、心から尊敬する。器用貧乏とはDNAに組み込まれているのだろうか。
それでも、たまにはよい作品にめぐり合えるように...

しかし、それはまた別のときの話。