万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

表現力の話をしよう

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こうして続けてブログ、いや、随筆という表現が正しいか、を書いてみていると段々「今日の分はどうしたものか」とか「この言い回しが面白いのだけれど、どこにどういれたらよいものか」など、片手間と閃きさえあれば考え込んでしまうものだ。自分の思考の言語化はコミュニケーションの第一歩であって、何を伝えるかよりも、誰にどう伝えるのかの法が大切であろう。この場合、不特定多数の人間(百歩譲って日本人に限定してもよいが)を対称に書くわけだから、一番大切なのはむしろ表現力なのだろう。


この考えにいたったのは、今日読み始めた原田マハ先生筆の「本日は、お日柄もよく」に感化されてのことだ。凄腕スピーチライターに出会った主人公の物語だが、正直言うと導入しか読んでおらず、きちんとスピーチを話題に書くのはお預けにしたほうがよいのだ。

ただ、一つ気づいた、本のいい所があるのだけれど、これが本を通じて自分の今まで知らなかった考え方、世間、職種と出会うことができる、という点だ。有名作家も流行り作家も、面白く書ければ話題など些細な問題で、表現いかんでそれはいくらでもよい本に仕立て上げることはできよう。先日映画化された「羊と鋼の森」もそのよい例だろう。あれがなければ、ピアノ調律師などという職業を知らずに一生を終えることが我々の大多数だったのだろう。それを届けることこそが、表現力なのだ。

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京都大学に在学中、私は様々な先生方の講義を受けてきた。表現力豊かな方もいれば、それが明らかにかけている方も残念ながらいた。生徒と一緒に歓談しながら授業を執り行う方もいれば、トップダウンに、情報を滝のように落としてくる先生もおられた。京都大学からは幅広く日本を知ってほしいという願望から、それこそ京大内外30人、40人もの先生方に講義を受けてきた。どちらがいい、とはいえないけど、明らかに他より情報伝達に長けていた先生もその中にはいた。軽妙洒脱な建築学の先生、「だもんで」を連発し面白おかしく飛鳥時代の日本史を語る先生などが記憶に根強く残っている。

しかし、かなうものならまた教わりたい、と思う先生は、会話・発表と称された授業の先生だ。一学年も毎週授業受けてきたから当然といえば当然だが、本当に生と一人ひとりと向き合い、その生徒の今の実力を見極め、公正に評価してくれた。そして、生徒同士の実力の差を認めた上で、こういった。

「今のあなたたちは、表現力のレベルで言えばDかもしれない。Bかもしれないし、A-かもしれないし、Eかもしれない。それはそれでいい。私が見たいのは、この一年でどれほど伸びるか、ということだ。Eの人がBにいたるのを見ると、先生としてたまらなく楽しいからね」

多少は語らせている部分もあるのだけれど、記憶は往々にして美化されてしまうものだ。ともかく、この授業で我々は個人発表、グループディスかション、読書意見交換、本格的なディベート、想像上の会社を立ち上げて重鎮会議のシミュレーションなど、様々な形で表現力を養育してもらった。そして、先生はいつも影で応援し、学ぶ手段だけを私たちに与えた。大学教員のあるべき姿だと、私にはそう思えた。

なぜそこまで感化されたかというと、この授業がたまらなく楽しかったからだ。自分の表現力を伸ばしたい、とずっと願っていたのかもしれない。今となればこれは1年半前の話で、着実にその頃から落ちているのが遺憾なほどに。その先生が最後の私に言ってくれた言葉が(脚色をほどほどに)こういうものだった。

セバスティアンさん、あなたの日本語力はすばらしい。優秀なのだ。しかし私は、優秀な人ほど怠けるものだと経験を以ってしてしっている。もうしっているのだから、目指さなくともいいと思う。だけれどあなたは違った。この一年で、確実に伸びている。リーダーシップを見せてくれた。私の期待を覆してくれて、嬉しいのだ」

勿論、狙ってこういう言い方をしたのかもしれないし、私に彼女が言うほどの実力があるかはわからないのだけれど、こういわれて嬉しくないはずもない。伸ばしてくれて、感謝している。そして、この記憶を大事に持って、次につなげて生きたい。

しかし、それはまた別のときの話。