万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

知性の話をしよう

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人格、なんて言葉が出てきたら読む人は身構えてしまうのだろうか。私は結構「話が難しい」とか「深い」とか言われるか、これは要は話はあまり伝わっていないってことなのだろう。そういうキーワードを聞いて人は無意識のうちに「この人の話は分からない」と勝手に考え込んでしまうのではないだろうか?

けれど私としては文章を書く上でただただ美しい文章を書きたいのではなく、人に届く文章を書きたいわけだから、これではいかん。一回そう思われたら第一印象が決まってしまって中々拭いきれない。逆に最初の方で趣味が合うなり馬が合うなりなんなりして第一印象で「この人とは話せる」と思われたらそれが精神的なかせというか、ルールとなる。これはもちろん絶対的ではないが、かなり強力だ。

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そこで一つ人間が分かりやすく自分の思いや考えを伝えるために編み出したのが比喩だ。AはまるでBのようだ、という一見して単純な方程式は人間が生み出したものの中で結構強い。なぜなら元々関係の無いものを「似ている」点を探し当て、繋げることで、実質脳内でつなげることができる。脳内の構造は「繋がり」を基に動いているわけだから、脳の構造を精神が模倣しているようなものだ。模倣と言うよりは順応、なのだろうか。

だから人間は「難しい漢字」と「難しい話」を対としてみてしまう。実際その「難しさ」が同質のものでなくとも、だ。そして「難しい漢字」を使う人は「難しい話」をし、ゆえに「頭がいい」。間違ってはいないだろうけど、これではあまりにも短絡過ぎる。その人の脳内がどうなっているかわからない以上、案外簡単なものだったりする。

それに関連して言うと、やっぱり薀蓄と知識はまるで違うものだ。具体例で言うなら英語を話すとき、単語を読んだり聞いたりすることは明らかに前者で、話したり書いたりするのは後者だ。薀蓄はいわばデータ、具体的で普遍的。日本語をしゃべっている以上、木という単語は木を意味し、水を意味したりはしない。しかし薀蓄をいっぱい知っていればいいってわけではない。それを並べ替えたり,繋げたり相反させたりするのが知識で、学術だ。

難しい話がいえるぐらいでは薀蓄を覚えたか自分でそれを創造したか、改作したのかも全く分からない。勿論、長い話を覚えるのも技術の一つではあるが、それでは軸が違う。読み取るだけでは、まだまだ消極的。演技は面白い例で、薀蓄を読み上げるだけの作業が、身体の持ち方、声の出し方なども関連して動くわけだから、高度な技術がいると言えよう。だけど、その技術を今度は創造の方に持っていけば忽ち知識となる。すなわち、知識は薀蓄を創造にどれほど運用できると言うパラメーターだろう。

...しまった、これではいかん。またも難しい話と言われる始末だろう。

しかし、それはまた別のときの話。