万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

また翻訳の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

今日は母の誕生日に客が来ており、若者が私一人ということで、従兄弟(30代、既婚)の子供3人(全員10歳以下)を子守する役割を仰せ付けられた。と、いうより三人とも私になついているようで中々離れてくれないようで、炎天下で慣れないサッカーをする羽目になった日で、そんな日に代なんて出てこないと思った折に...

無意識と言うのはすごいもので、そこに燻っていた「これを書きたい!」という衝動が思わぬところから出てくる。この時、きっかけはメールの整理をしている最中に見かけた、前手がけた翻訳関連のメールだった。翻訳を本業にはしたくない、と頑なに思ってきた私だが、思えばそれなりの時間を翻訳に費やしている。

+おそらく関係ない日本人の方。

解剖学の講義シリーズで高い知名度を誇る、テゥルプ博士の解剖学の講義。デン・ハーグ市のMauritshuis美術館にて。

その一つがオランダの絵画と医療史の交差点に存在する、アムステルダム市外科医組合の依頼で書かれた、解剖学の講義の絵画の研究である。読んでいて中々読むにくそう、と思われるだろうけれど、これが中々現代風に書かれていて、あるいっそうのマニアにそれなりに人気が出そうなものだが、あいにく今出版の方は停滞状態のようだ。

驚くことにこの書籍はオランダの大学教授の手によるもので、日本の某大学の医学教授に贈呈され、しかし読めないものだからオランダ人に訳してもらって読める状態にして欲しいと言う、さながら杉田玄白の「解体新書」のようだと、私自身は常々思う。もっとも、玄白のオランダ語の師の名まではしらないのだが。これが私が手がけた最初の翻訳でもあったから、とんだ分不相応だといえよう。

本の詳細や出版状況はさすがにここでは明かすべくまいだろうから、代わりに翻訳の過程で気づいた翻訳の難しい点をいくつか述べたいと思う。まずは何より、数百ページをも数える本ならば、絶対気づいてしまうことだが、何をどうやっても最初の方より最後の方がうまく翻訳できてしまう。

私の場合は素人がやりながら翻訳のこつを覚えたわけだけど、誰であろうと遅かれ早かれこの問題は出てくるだろう。小説なら登場人物の名前、容姿の表現、よく使われる比喩の訳し方は、一定の翻訳が定着するまで時間がかかる。これはまさにやってみないとわからない。

最初の方で「灰色の犬」を「A grey dog」と訳し、200ページ後に同じ犬が出てきても、正しく記憶し、同じ訳を与えることは到底不可能だ。「An ash-colored dog」となりかねない。これは必要な懸念か、と問われかねないが、推理小説ならば言葉の使い方ひとつでトリックがパーになることなど多々あろう。文学作品でも、ニュアンスや表現などは間違い一つで消えるものだろう。

ならまずは本を徹底的に読みつくそう、と思うかもしれないが、これも完璧にできるはずもない。最後にもう一回チェックするのは翻訳者として当たり前だが、これでも全文の統一は難題だ。一度書いた文章をだめとみなし、完全に書き換えたのには勇気は要ることで、新しい間違いを起こすこともあろう。

こういうわけだから、翻訳版で第二翻訳版があっても仕方ないとは私は思う。もっとも、出版社がそんな資金を割いてくれれば、の話だが。

しかし、それはまた別のときの話。