万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

心身の話をしよう

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人間という物は常識から言えば、身体と心、この二つでできている。二つでできてはいるが、その関係性が甚だ難しい。こんなブログごときでは、陳腐なことしかいえない。せいぜい、心身一体論だとか、唯物論だとか、そのような物の説明にとどまってしまう。そういうことを言うのならば、最初から多くを語らないのが正しい判断と思えてくる。

だけれど、この心身の関係性という問題は、哲学名問題云々よりも以前に、我々の日常においても大きな認識問題を起こしてしまうのがしばしばである。特に身体か心か、どちらかが病んでいるときにこそ、この二極化が問題視されることになる。

現代医学にとって、病気という概念の定義が歴史を通じて、時代を得て進化したように見える。漢方を信じる人がいないというわけでもないけれど、体内の間違った均衡をもう一度直すと言う意味での医学はすでに迷信の類だろう。ちなみにこの考えは勿論中国独特のものではなく、ヨーロッパ各地でも13世紀まで学者に主流であり、民間の間はそれ以降も長く信奉されてきた医学の基礎である。

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それに対して、現代医学は遺伝子という暗号を読み解き、この部分がこの部分にこう働きかけると言う、明確な因果関係の上に成り立つ、科学的医学を存在刺しむる結果となった。さらに、今まで不可知領域だった脳も、一歩一歩ではあるが、読み解けるようになってきている。しかし、今だの「意識ははたしてあるのか」などという次元の質問に対する最終的な回答が得られないのが我々の生きる時代だ。

これこそがSF小説のSFたる所以だ。今はまだ発見できずにいるけれど、もしかすると将来的に脳内構造Aの発見により、社会がこう変動するのではないかという、IFの未来の社会を見ようとする試みである。もっとも、データそのものをひたすら処理し、解析することと、創造的な行動である執筆の間には、到底またぐことのできない溝があるのかもしれないが...

意識の構造が見えない上、「精神病」という概念は正直未だに私にとって曖昧すぎる概念だ。常を逸した行動は勿論あるし、それを正常に戻すことができる医者も逸れはいるのだけれど、それこそ前回のような帰属理論や自己説得、つまり自我の理論構築だけの問題なのだろうか?身体があってこそ精神病は起こるし、環境も勿論精神病の幅に影響を及ぼすのだろうけれど、むしろ身体と精神病の直接的な関係を私は興味深く思う。


脳のどこに不具合があればこの精神病が起こりえるのか、まずはその境界条件を知らなければ化学は始まらない。関係性のある要素、ない要素を別け、真理を究める。最先端での働きは勿論分からないけれど、少なくとも一般市民である自分のところまでそのような研究が届かない。病を直すのには病を知るのが最善だ。延いては病を事前に防ぐことができれば、人手を煩わせる精神看護の必要性もなくなる。そのためにはまず、精神病の確固たる啓蒙を。はたしてこれは21世紀にできないものかな?

しかし、それはまた別のときの話。