万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

創作の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

今更言うこともないのだけれど、ここ数日はどういう心境の変化か、自然と執筆に割く時間が多くなってきている。これが実際実を成し、今では京都で書いたあの論文よりも文字数が多いワードファイルが出来上がっている。結果はああだけれど、これと言って新しい発見が言葉にできるようになったわけでもない気がするから、薄氷を踏む思いでとりあえず書いてみるといった具合だ。

これと言って作家になろうと決心したこともなく、ただダラダラとして書きたいときに書き続けてきた私だけれど、それでもたまに無意識のうちに極意の糸切れをつかんだと感じるときがある。特に昨日今日はそう感じることが多かったから、先日執筆の話を下のに続き、創造という意味での執筆の話をしたい。

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当たり前のことだけれど、執筆が創造的活動である以上、無から生み出すという行動であるに他ならない。現在書いているものの中に病院という舞台が出てくるわけだけれど、私が日本で見てきた病院は限られているし、形や役割もおそらく今書こうとしているものとはだいぶ違う。

そこで書くのに当たって、三つの材料原しかないのに気付く。それは取材、自分の経験の延長線上にある創造と、最後には単なる妄想なのだ。これだけでは想像しがたいと思うので、読者の便宜を図って例を出していこう。

例えば東京を舞台にするとして、実際東京に存在する町、駅、場所の名前を拝借して、実際ある東京に上乗せするように自分の物語の中にしか存在し得ない、架空のもう一つの東京を作ることができる。場所に限らず、時間というファクターも入れれば「4月の目黒の桜が綺麗」という、現実世界にいる人も考えうるような「事実」を、物語の世界に織り交ぜることによって、物語の世界が確固たる、現実感を帯びてゆく。

ゆえに、上の取材は「誰でも知りえる情報を扱う」というやりかただ。これなら大してすごい想像力がなくとも小説は書ける。なぜならここで必要なのは「無から作り出す能力」ではなく「既にあるものを編纂する」という、編集力からである。

その一歩向こうに、自分の経験をもとにかくという方法論だ。これもある意味取材では歩けど、「誰でも知りえる情報」ではなく「自分しか持たない情報」であるから、一般社会からある程度ずれている。自分の思い、物事の認知を織り交ぜて書くのだから、ある程度合わせる必要が生じる。勿論小説の登場人物は(大体の場合)そのまま自分であるわけではないから、この状況ならこういう人はどうするのか、と想像力を働かせる。

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そしてさらに、単なる妄想。勿論言い方が少し雑すぎるのだけれど、実存しないものを実存する人間を対象に書くというのはかなり高度な技術だろう。「自分しか持たない情報」の上に「実存しない、虚数的な情報」である。なぜなら、その仕組みや見た目、役割を知っているのは自分しかいないのだから。Game of Thronesが現代では一番分かりやすい例と思うけれど、この世界でまず何がありえて、何がありえないことすら定かではない。作家は自分を否定しかねないという、危うい橋を渡りながら書くのである。

考えてみるとこの三つの方法論はたいていの場合同時に使われ、しかも誰もが疑問に思わないのだ。実存しないものを語ることで人間は喜び、悲しみ、儲け、損し、生きる。
作品が結果的にどう転んだとて、これはすごい営みだと、私は主張したい。そして、その道の先輩らの作品を読んで、どのような思考回路をたどって創作をするのかという問いに、思考をめぐらせる。

しかし、それはまた別のときの話。