万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

会議の話をしよう

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社会人でなくとも、会議というものはたまに遭遇するものだ。そう、なにかの組織に属している限り必ずやってくるものだ。家族会議や住民会議、井戸端会議などは昔から普通な日本語として定着している。もちろんその意味は微妙に違ってくるけれど、関係者を集めて何かを話し合うという意味では一緒だろう。

明日二つの会議を控えている身分として、どうしても会議という物が面倒に思えてならない。その一番の理由としてはまさにそこだ。誰もが会議を面倒くさいものとして認識し、または「どうせなにも解決しない」という態度で会議に面し、そのせい実際なのも起きない会議が多いのだから、悪循環というほかない。

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さて、この悪循環をどう打開するべきか。日本では「根回し」というものすごい概念があるように語られることはあるのだけれど、根回しなどどこにでもある。会議で話し合う必要性がないのなら、個人個人、またはそのものごとを解決して一番利益を受ける人が一人で勝手に解決すればよいのだ。その方がよっぽど効率がいい。

しかし、問題は誰もあまり利益を得ない会議が多いことだ。利益があったとしても、自分にそこまで関係がないと、組織に属していてもそこまで責任感を感じない人たちがその会議のメンバーであるならば、誰もその会長を勤める人がいないというわけだ。無理やりそこで役目を決めて何かが起きるのを待っていても起きるはずもない。

この一年、私は「学科教育推進委員会」とでも称すべき会議のメンバーとして活動してきた。この委員会は一応大義名分はあった。学科で行われる授業の質を見極め、授業やその指導先生に問題はないか確認し、その結果を生徒・教官たち自身に報告することだ。それはもちろんよいことだが、教官たちも年に一度の職務査定の時その情報を使うし、それは自分たちが話したいというよりは大学に義務付けられてしていることだ。

つまり、先生側は内的モチベーションがない。責任感の強い人ならいざ知らず、そんなことより別にやるべきことがある、と思うのが人間の性だ。実際やるべき仕事はいっぱいいっぱいだろうし。その上、この委員会にその先生方3人がおり、署名上の最終責任者である。けど事実上仕事をしているのは秘書である私を含む生徒3人で、先生方はいわゆる管理職という立場だ。つまり、会議で少々発言するばかりで、それ以外消極的だ。

こんなことを大学の方から義務付け、たいそうな大義名分とその行い方を説明する課外授業を設けているのだけれど、これは果たして成功するのだろうか?いな、根本的なところで間違えている。まさに、他にまずやるべきことが一杯あるのだ。順序が違う。する活動一つ一つが途中から無意味に感じ、ただただ怒られて疲れる。

そのような精神状態で、明日はそんな職務を引き継いでくれる生徒たちを探さねばならぬという、最後の義務が待っている。まったく、滑稽だ。だからこそ今ここで溜飲を下げているのだろう。お疲れ様会など、どうでもいい。大学時代は楽しかったけど、戻りたくない過去もある。

しかし、それはまた別の時の話。