万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

道具の話をしよう

ようこそ、万事屋「和華蘭堂」へ!

佐賀を夢見る日々が続き、ついには三週間を切ってしまった。Japan Festivalという大きなイベントが去ってしまった現在、最早やがて来る日を待つのみ、という感じなのだね。そのせいで、無意識のうちに私の心が急に寂しがり屋な側面を表に出してしまって、人肌恋しい季節も手伝って無性にともかく色んな人に会いたくなる。恋をしたくなる。けどそれと同時にわが心は頑固で、実際会って玉砕するまで一回決めた相手をなかなかあきらめようとしない。

というわけで日常は続く。この半年の日常というものは非常にあいまいで不安定ではあるが、配達員と倉庫員の二つのバイトでなんとか生活の体を保てて来た。今日もバイト帰りで三十分ほど田舎道を漕ぎ越し、家についてビールを一杯。まったく、さながらサラリーマンのようだ。どこか、そういう生活に憧れを抱いてしまっている自分もいる。

そんなバイト先で、今日一つ発見があった。気づいたら私は、バイトで使うスキャンナー(まあ、いわば端末のようなものだ)に違和感を覚えなくなっていた。スキャンナーそのものは腕にはまるブレスレットみたいな形状で安形の携帯電話をベースに、そこにつながっているコードで指にハマる赤外線を放出する指輪みたいなものでできている。そうして言葉に言ってみれば、ちょっとだけサイズの合わない装飾品を腕と指にはめているようなものだ。

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しかし元来私はそういうものとは無縁な生活を送っている。服以外の装飾品を使うのかといえばショールぐらいだ。腕時計は無性に肌の感覚が気になってはめる気になれないし、況してや手袋なんて論外だ。体の一か所だけが無駄に暖かくて、汗をかいてしまっていてはしまりが悪い。それなのに、私のスキャンナーに対する違和感が、いつの間にか消え失せた。自分の体の一部に、その認識が入れ替えられしまったのだ。

けれど、考えてみれば服というものも元来そんなものだ。なら服を着なくてもよいものだろう、と言われても筋違いでもない気がする。なのにそれを言われたら抗議したくなるのは、服がすでに自分の体の一部になっているからである。メガネなどはその最たる事例なのだろう。メガネを面倒くさがる人など、もらったばかりの子供ぐらいだ。

つまりはすべて道具なのだ。自分の体にない機能を持った物体を体につけ、慣れないものを体に慣らす。東洋には刀を自分の腕の延長として考える風習もあるが、これもこの脳の性質に則った考えなのだろう。これは物質的なプロセスではなく、むしろ精神的なものだろう。言葉に表現するなら脳をだますような行為だ。異物を異物たらしめるのが「元々なかったもの」なら、ずっと付けることで「元々あるもの」のように信じ込ませるしかない。

道具という言い方が悪いのだろうけど、これはおそらく人間にも通じる論調であろう。以前に「第一印象さえよければ、一緒に時間を過ごせば過ごすほどどんな相手でも好意的に思えてくる」というような結果が出ている。90年代の心理学所がどれほど当てになるかはわからないが、いずれにせよ身近なほど自分の一部として見てしまう傾向が人間の脳、または意識にどうやら存在するらしい。なら中毒も同じ原理なのだろうか?

しかし、それはまた別のときの話。