万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

Netflix の話をしよう

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読書家、とりわけ京極先生なんて大層分厚い本とか読んでいるとどうしてもある種の偏見、偏った印象がついてしまう。漢字好きも、ジャズ好きも、落語も多分同じような「渋い」という印象が伴ってしまうから、私が自分の身辺の話をするとそういうちょっと珍しい趣味、一般ではない趣味などが出てきて、大方は「セバスティアンさんはキャラが濃いねぇー」なんて言われる羽目になる。だけど濃いというのはまあいわば偏見だ。皆があまり見向きしない趣味を持っている、というだけのことだと思う。

なら私が一般人とかけ離れた趣味ばかりを持っているかというと、まったくそういうわけでもない。お酒とおいしいご飯は好きだし、好き好んで月に2,3回映画館に行って人気作品を見る。カラオケも好きだし、好きなアーティストのライブは行きたいし、クリスマスは思い人と過ごしたいと思う。

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そのなかでも、今やだれもがある種の興味を持ち、接触しているのはNetflix などのサービスだ。日本にはAmazon Prime やHulu の方を好む人もいると聞くけど、まぁこれは見れる作品が多少違うだけで大同小異である。いつでも、どこでも好きなドラマや映画、ドキュメンタリーが見れるというのはやっぱり魅力だ。音楽でいえばSpotifyApple Musicなどがその代表なのだろう。

突如として台頭してきた、というわけでもないだろう。私が小学校高学年、中学校に使っていたLast.fm というサービスを通じて既に自分の好きな音楽を好きな時に聞いていた。これらの新時代のメディアはだから伝達媒体としてはもちろん新しいのだけれど、発想としてものすごく新鮮でもないだろう。

むしろ、番組ごと売ることがテレビが普及し始めた時代にすでに技術的に可能だったら、元々そうしていたんじゃないかな?それとも、テレビと契約とをパッケージにしてさらに高額をもらおうとしたのだろうか。そうやって歴史の分岐点を考えることで、たまに見えることもある。

今の世の中ではNetflix & Chillなんて言葉が作られ、普及し、そしてあっという間に廃れるほどに、Netflixというサービスが当たり前のものに乗っている。番組が本と同様に、積んどくならぬ積ん観(つんみ?つんかん?)できるようになった。これはテレビが番組と曲と時間と空間に制限されていた時代ではなかなかできない発想だったのだろう。

現代人の娯楽・メディアの消費の仕方が変わってきている。しかし、それはどちらかといえば本とテレビがようやく同じ土俵に立ってきたということに他ならない。ならば、活字のみ提供する本が、映像も音響も提供するNetflix流の番組に勝てるのは難しい。

また、時空間制限があったからこそ有効な「番組」という言葉はすでに古い。なぜなら順番なんて自由自在。同じ番組を何度も見たり、同じシリーズを通しで見たりするのはいとも簡単だ。なら、事場合の単位の名称はなんになるんだろう。作品、などと言ったらさらに本・テレビ・映画の間の境界線が揺るぎかねない。そんな時代を生きる人間として、これからも考えていきたいと思う。

しかし、それはまた別のときの話。