万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

魍魎の話をしよう

ようこそ、万事屋「和華蘭堂」へ!

私は22年間生きていて、人の性格に普遍性などない、いやある、いややはりない、というような脳内の押し問答を続けてきた。もちろん常日頃からそうしているわけではない。そんなことをしていたら日常が遅れなくなる。

私はあくまで自分のことを理性を持った人間だと思う。理性を通り越して屁理屈こいたりすることがままあるぐらいだ。しかし、やっぱりこの性格、延いては意識の形とでいえようか、という問題がたびたびめぐってくるものだ。

ツイッターでもよく呟くように、私は日本語を始めてから好きな作品、作者がそれなりに存在する。音楽でいえばamazarashiやASIAN KUNG FU GENERATIONはどちらも少なくとも3年前聞いている気がする。高校の頃は村上春樹竜騎士07の世界観にのめりこんでいた。そして大学に入って、森博嗣京極夏彦の二人の作家の博識に魅入られた。

特に京極先生の本は、宗教学から臨床心理学、人文学、民俗学、犯罪学や推理小説の批評など、多岐にわたる分野の氏の考え方が京極堂というキャラクターという顔をもって世に出される。これが実際氏の考え方なのかどうかは、自分にとって無意味な質問だ。

大事なのは、氏の言うように、情報の公開の仕方。呪術とは情報操作に他ならない、ということになる。そう考えたらなぜか楽しい気分になってくる。情報をむやみやたらに集めるだけじゃなくて、利用することに興味を覚えたのもその影響があってのことだろう。

f:id:yorozuyawakarando:20181112045644j:plain

そんな氏の思想(とはいえないかもしれないが)に初めて触れたのが「魍魎の匣」のアニメであった。それが放送されたのはいまや十年前の2008年であるが、私がこれを見たのは高校だったのか、大学一年生なのかは判然としない。森先生の「すべてがFになる」のアニメを見たのが大学二年生の10月からで、これとほぼ時期を同じくして見ていた気もするが、そう考えると三年余りしかたっていないにもかかわらず、脳内がボヤっとしてよく思い出せない。

こうやって脳内の記憶をあれこれ推測し類推する行為は楽しいものであるとともに不思議だ。なぜなら当時の私は、そもそもこれらがもともと小説であるなんてことは知らなかった。これが日本のテレビで放送された、という実感はおろか、いつの作品なども知らなかった。しかし作品の内容、登場人物の雰囲気や叙述トリックなどはそれなりに頭に残るもんだから、摩訶不思議としか言えない。

世の中に不思議なものが一つでもあるとするのなら、それは人間の意識とそれに付随する性格の変遷である。しかしこの問題だけはいつになっても解けそうにないし、自分の脳でさえわからないのなら他人のものについていく自信もない。

私にとっての魍魎の匣とはつまり意識そのものといえるだろう。姿が見えず、いや見えたとしてもそれが定まらずいつまでも暈けてしまって曖昧模糊なものだ。よくこんなんで日常遅れるものだと思う。我々皆の中に、こんな薄気味悪い、得体の知らないものがあるというのに。

しかし、それはまた別のときの話。