万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

オランダ人の自分、日本人の自分の話をしよう

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佐賀について、一週間ほどが経つ。一週間という短い期間も、やっぱり自分の専門である日本で過ごしているといろんなことがあり。仕事にだんだん慣れてゆき、佐賀という街での生活、佐賀の人の考え方やしゃべり方も常となってくる。

そんな中で逆に同じオランダ人との出会いがちょうどいい鏡になってくれている気がする。私は私としてどっぷりと日本文化に染まり、小説と留学生という二つの媒体を通じて自分の中に日本人としての自分をはぐくんできた。いわば日本で生きていくために適したペルソナ、人格の一側面である。しかし、オランダ人の前ではそれは役に立つことはそんなにない。逆にいっそのこと殴り捨てたほうがいい。オランダ人の前ではオランダ人でいなくちゃ。

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日本語を勉強するため、日本で自分の生きたいように生きるためにはゴールとしてやはり日本語の上達、日本語で自分を最大限に表現できる力だと思っていた。しかしこれは結局は個人的で割と大学から見たゴールだったのかもしれない。

実際日本で出会う人々はよく「日本人として接している」「日本人より日本語うまいだろう」と言われるようになった。それはそれでありがたいことだし、上のゴールから見て一見成功しているようには見えるけど、一方で全く違うことにもなりえる。上のゴールが果たして自分が目指したかったのだろうか、って他のオランダ人を見て思う。

彼らは日本語をそんなにしゃべらないししゃべれない。居酒屋で飲んで食べてしゃべる楽しみを私ほど理解していない。安ければいいと思うし、コンビニでいいやって思うこともある。言うてみればオランダ人としての自分を保ったまま、日本に滞在している。まるで自分のまわりに「オランダ人」という空間のようなものが、球体のように常にそこにあるように。その在り方を、私はやっぱり否定できない。

なぜなら、それは私にはできなかったことだった。私は性格が、人格がそんな確かなものではないと思ってしまう。オランダ語と中途半端な日本語では満足できず、なぜか上を目指してしまった。ほかに目指すべきものがあったのかもしれない。経済もマーケティングも営業もいったん置いておいて、私は日本人目線でオランダをも日本をも生きている。

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それは日本からしたらたぶん一見して異様だけど、一旦なれれば近づきやすいだろう。先週であったばかりの日本人と意気投合し、昨日一日佐賀をドライブして飲んで温泉に入ってきたばかりだから、ある意味それは功を奏している。だけどやっぱり外国人だからそのへんはまたふとした時に一線を引かれてしまう事態を起こす。自分もそのことを気にして一線を引いてしまう。

一緒になろう、同じものになろうとするあまり、本物より本物らしくなることってのはきっとあると思う。だって、本物は別に努力しなくても本物だから。日本人は見た目、共有される強度と記憶をもってしてそもそも日本人だ。多分佐賀に生きる人々は今まで当然にように日本人として扱われ、当然自分が日本人だと思って生きてきた。だから段々日本人になる、なんて生物が現れたら混乱するだけだろう。

ハーフの方はハーフで問題はあるけど、それは往々にして見た目、印象とそこに付随する精神に対する偏見が多い。それこそハーフの方もなろうと思ってなっているわけではない。自分が自分のことを日本人だと思ってもそう認識されない悲しさってのは尋常じゃないだろう。

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じゃ「日本人より日本人」になろうとした、私のような異物はどうだろう。まず日本人として認識されることはたぶん永遠にない。認識されたい、というハーフの方が持つ欲求もない。ただあるのは、日本人に限りなく近い精神だけ。人間一人分の努力と勉強をもってして作り上げた、一人の人間から見た日本人の虚像。

日本人の自分とはそういうものだ。鏡に映ったような「ザ・日本人」の鏡像。なぜそうなったかはというと、その方が一番日本で生活しやすいだろうという、無意識のままの偏見、前提だ。もちろんそんなことはない。

自分の習慣をリスペクトしてくれるのはもちろんうれしいけど、自分になろうとする他人はもはや恐怖の対象だ。自分が自分に対する劣等感、弱いところすら持っていないから自分より自分らしくなれるんじゃないかと思うとそれはもう怖いものだ。

日本人としての自分を生きる毎日はだから当人として楽しいはずだけど、これはこれで不安の種が尽きない。なぜなら自分が自分でなくなる気になってしまうからだ。なぜ自分が日本人のようにふるまわなければならないという、正当化のわけを必死に探す。

真理探究、知的好奇心のためと言ってとりあえず目指したところが結局アイボリーの塔に引きこもることだ。誰もが見ることのない、人とかかわることのない完全無欠な党の中で一人悶々とする。

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だから、一遍降りてみるのもアリだろう。母国に帰ってみるといい。もちろん自分の中には日本人もいるが、母国語をしゃべるときの感覚、話の合間、相槌のタイミングと打ち方で、もう一回自分になろう。オランダ人みたいに話題を振って、オランダ人みたいに話題をそらして、オランダ人みたいに下ネタを言うって、オランダ人みたいに思い出に浸る。そうしたら見えてくるものもあるだろう。

日本に行ってみて、日本人から学んだことはたくさんある。だけど、日本人からは絶対に学べない教訓があるとすれば、それは「日本人みたいじゃなくてもいい」というものだ。それを教えるのはやっぱり自分の国の人でないと。これも国際人になるための一歩なのだろうと信じて。

しかし、それはまた別のときの話。