万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

戦争責任の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

さて、初っ端からとんでもない大きな話題を俎上に挙げてしまった。
けれど、この本を手にしてある程度読んでしまえば不快な気持ちになり、思考が混乱し、にっちもさっちも分からなくなってしまったから一旦考をまとめてみることにした。この本というのは、中村文則の「教団X」というものだ。

そもそもなぜこの本を手にしたかというと、それは単に英訳が出たからである。2014年にも一応出ていたが、出版社を変えて去年また浮上してきた「Cult X」は、オランダの書店の平台にも並ぶようになりつつあった。これは戦争の話で、哲学の話で、恋とか性とか、宗教とか責任とかの話である。もうこれ以上入り込めないかのように、箪笥一杯の話題を詰めた一冊である。それゆえに東京グール張りに紆余曲折し、しまいには登場人物誰一人も記憶に残らず「こいつ誰だったっけな?あれ、また新しいの出たぞこれ」となってしまっていた。

ともかく、久しぶりに本に躓いている。これはかなり珍しいことだ。まぁ、冒険をすれば転んでしまうこともある。この場合は森に迷い込んだら昔嫌いだったあいつとばったり会う人と出くわすような塩梅だ。理屈も理論もないのに、やたらと口が達者で合議で語り合うより蘊蓄でも語り倒して自分では考えさせないようなものだ。京極先生等は同じ手のはずなのに、自分と合わないものになるとこうも違うものだな。

あぁー、単に私は戦争が無駄で不毛で嫌いなんだろうな。

元来私は日本を研究していたころ戦争責任だとか靖国だとかいう話題を大の苦手としてきた。大体、戦争なんてものは大局的過ぎていて、責任なんてあっという間に転嫁されてしまうし詭弁も飛び交う。京都大学の時にできた知り合いが三合の飯よりそういう話が大好きな奴がいて、嫌々ながらもよく議論を試みたものだ。結果、我々どちらも理屈を次第に諦め、終いに説得することを持諦めたのだ。

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その話題の一つに靖国神社を取ってみよう。そもそも靖国神社の歴史を熟知し、日本の歴代総理がそれに参拝することの良し悪しを論じるのはもちろんできる。けど、それを論じてどうなる?「はい、私たちが間違っていました。すみませんでした」と片方がなることは、ないのだろうね。

結局国は正しくあらなければならない。存続するためには物理的と精神的な不滅の両方が必須条件だ。だからこの手の争いごとは世界統一国家が出来なければ到底かなわない。個人としては夢見るジョン・レノンでありたいのだけど。

私なんかは日本かぶれの外国人で数冊読み漁った程度の知識しかないのだけれど、日本人のどの程度が靖国神社の意義、そこで参拝することの意味をしっているのだろうか?どの程度がその兵士たちを神として拝めているのだろうか?当時の人たちに果たして心から祈る余裕なんてあったのだろうか?政治家しか信じていない国教なんてどれほどの価値があるのか。

第一、靖国が戦争(それがどの戦争をさすのかすら論点になるようだが)でなくなった兵士を英霊やら神やらに昇格させているのだとしても、それはあくまで宗教の次元であるのではないだろうか? 昇格された人々は死んでしまっていてそんな恩恵を受けたとしても一向に喜んだりしない。喜ぶのは現世の生きた少数だ。自分たちの世界観の中でそうだとして、それは思想の話であって、現実と結びつくのは難しいことだ。

誰かに「その思想を持ってはいけない、そう信じてはいけない」と改心させるというは大変に難しいことだ。靖国のような問題は相反する、いわば不倶戴天の思想の亀裂から湧き上がる不気味な霧のようなものだ。それはまるで火山の噴火をいつでも仄めかしているようなものだ。

けど同時に、今の日本人にとって、それは自分の世界の外の出来事に等しい。政治家がいくら参拝の良し悪しを論じたところで、国民一人一人が自分の意見を持つことはないだろう。むしろ「東京裁判」や「天皇制」などの単語を一般的な会話で論うものならば、途端に辟易される。日本人であることは、靖国神社参拝の可否に意見を持つとは直結しない。システムの中にいることと、そのシステムの改善を積極的に変えようとすることは根本的に違うものだろう。

意図的でなくとも、日本人はみなそのシステムの中にいるから、やはりこういう話題がでるとどこかばつの悪そうな顔をするし、腹の中が虫が湧いたようにむずむずする。現に、日本とある程度関わってきた私もそういう状態なのだ。自分の選んだところがよい国であると信じたいが、大局的に言えば現実はそう甘くない。人は自分の目の前の現実で手いっぱいだ。差しあたっては、まだ読みかけのこの本に戻るとしよう。

しかし、それはまた別のときの話。