万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

コミュニケーションの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

考えてみれば話してみたい話題はいくらでもある。ということは、たぶん今の生活がそれなりに充実している、ということになる。いろんな人といろんなところでいろんな話をしたり聞いたり応酬したり、つまりコミュニケーションをとっているからこそ、今の生活がある。そう、コミュニケーションがすべての基本なのだろう。

だけど今までの投稿を見ると、非言語的コミュニケーションや表現力の投稿はあっても、コミュニケーション自体の話をしたことがまだない。先週から毎週受けている授業でコミュニケーション論があるから、まあどうせならということで少しコミュニケーションの話をしよう。

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ここで一つ断りというか、当行と登校の間に気づいたことなのだけれど、材料がないと私は本当に脈絡もなく徒然と書いてしまう。絵描きの知り合いに言われたことなのだが「なんで絵のモデルも決めずに描こうとするのかなぁー。描けないに決まっているだろう」という。まぁ、実際の表現にはいささか手を加えているけれど、そんなところだ。

何が言いたいのかというと、もう少し性格にメッセージを伝えるためには、ノートをとる必要があるのだろうということだ。ノートをとっていたら、上の引用ももっとうまく伝えられたのかもしれない。コミュニケーションは一方では、A地点からB地点へと、あるメッセージ、まぁ広く言えば伝達の意図のため起こされた刺激、が伝わる過程だ。

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この「効率よくメッセージを伝える」過程を考え出したのが、奇しくもこの電脳空間の礎を気付いた張本人、シャンノンという名の電工学者である。理系の人の上に教授によればだいぶ変人で、友達もつくらない、研究書も書かない、ただ一人で考える人だったようだ。「ただの落伍者ではないか」と言いたくなるような説明の仕方だが、そんな彼にもウィーバーという名の友人がいて、コミュニケーションモデルはこうして共著としてこの世に生まれた。そう気づけば大分いい話で、映画ドキュメンタリーにしたらよいもの作れそうな気までしてくる。作るのは私ではないだろうけど。

だけど、コミュニケーションはそう簡単なものではない。一方的でもなければ、一義的でもないし、一時的ですらない。何が言いたいというと、人は話すとき、時には同時に話し、もしくは非言語的なメッセージと言語的なメッセージを両方同時に送るし、その解釈も受けて次第である。言語が一緒でも、伝達可能なメッセージは、人生経験や生活環境というものに厳しく限られてくる。

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うんざりするだろうが、またわが愛読する京極先生を引っ張り出すと、「陰摩羅鬼の瑕」や「邪魅の雫」などの、彼の代表シリーズの後半の作品では、これを言葉に出さずとも状況的に描いてきていて、非常に読むのが面映ゆく感じてくる。彼はこの種の環境を「世間」という。考えうること、状況、動機、行動。太陽を見たことない人に、太陽を見たら痛い、という自明の理はもちろん通じない。それは我々にとって言われて知ったものではなく、体感して知ったことなのだから。

同じように、ある生活環境の中で生きているような「常識」はコミュニケーションの枠組みとなってくる。喋ってみなければ、どこまでズレて、どこまで同じであるのかのもわからない。もしかすると、あなたの赤と私の赤は違うのかもしれない。そんなこと、体感できるはずもないけど、頭の中には太陽と同等の存在としてあるのだ。

だから、正しくメッセージを伝えるにはなにができるのかというと、まず相手を知らなければならない。何を考え、何を思い、何を感じは難しくとも、どこで生まれ、なにをし、どこからきてどこへ向かい、その道中にどういう人に出会ってきたのか。潜在的な共通点をそうやって顕在化させてみないと、分からないことが意外と多いと気づくだろう。

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余談だが、先日会ってきた東大にいる友達に、なぜか表面的な部分、文化や教養などで言ったら珍しいほどに「通じる」相手に会ってきたが、そんな彼と話し合っても、共通の友達の性格がどういうものなのか、納得のいく描写が出来ずにいた。やはりコミュニケーションは難しいと、改めて思ったけど、だからこそもっと知ろうとも思った。

しかし、それはまた別のときの話。