万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

RBGの話をしよう

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今日のお話は、少々特殊だ。一般の人ならそもそもこの文字列の意味を分からないから、まずそこから説明しなければならないだろう。いるとすれば、今日私と同じような行動をして同じ場所で過ごした人か、日本語が堪能なアメリカ在住者なのだろう。

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まず、RPGではない。ロールもプレーイングもしない。RBY、つまり赤・青・黄の三色でもない。いや、これはアメリカ歴代最高裁判事で二人目の女性のタイトルを持つ、ルース・ベーダー・ギンスバーグという、メチャクチャにすごい85歳のおばちゃんの頭文字であり、彼女を題材にした映画ドキュメンタリーのタイトルである。

今私が在学している上智大学の新聞学科は、結構面白いところだ。結局私が最初に入ろうと思ったきっかけとなった、書店などを研究対象とする柴野教授は絶妙なタイミングでサバティカルに入り会ったことすらないけれど、ダイバーシティーやらメディア技術から見る2050年の世界など、色んな面白い研究や講義があるところだ。

そんな新聞学科が6月にシンポジウムを開催することにあたってやや早い前夜祭として目を付けたのがこの「RBG」という映画なのだ。不撓不屈の男女平等主義者である弁護士、のちには判事となったギンスバーグ氏の生き様、葛藤、結婚や友情、変わっていくアメリカの時代背景を描く作品で、久しぶりに見た映画である。日本においては初公開だったようなので、その上得した気持ちさえある。

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もっとも、男女平等を疑うのは、私から見て当たり前のことで、どちらかといえば高校から私の周りの男子と女子を比べたら、印象的にも、たぶん成績的にも女性の方が上だったはず。そんな世界認識を起こしたのは、多分ギンスバーグ氏や、その後継者のヨーロッパの諸法律家、政治家なのだろう。さて、法会を形成するのか、社会の意見を結晶したものが法となるのか。

映画の中で英語の表現で「Make law」というのがあったけど、まさに法律は不動の要塞ではなく、可変で時代の趨勢に沿って、誰しもが平等にその権利や義務、可能性を享受することができるように変わっていかなければならないものだ。そこに保守もリベラルも意味を持つべきではない。アメリカってすごい舞台だなぁーと改めて思う。私もいずれはその舞台に立ってみたいと思う。

ギンスバーグ氏は男女平等のために尽力を尽くし、正確に言えば今でも尽くし続けている。そんな彼女はいつしかアンダードッグの代弁者になり、唯一反対を唱える人で、「Notorious RBG」、つまり悪名高きRBGと称され、一時期は(もちろんアメリカないので、私は初耳だったけれど)ネット文化にミームとして、しかしジョークとしてではなく、もちろん女性の代弁者、ある種ひーろ的存在としてもてはやされることとなる。

こればかりは、少し慎重にならなければならないとは思う。この間友達を通じて知った記事に書かれたように、偉業を成し遂げた人は、往々にしてその偉業までの苦労や葛藤が省略されてしまう傾向にある。ヒッチコックの言う通り、ドラマというのはつまらない、ニュースバリューのないところを抜き取ったただの生活である。それを無暗に超人化せずに、努力を労いながらあこがれを持つ方がよほど健全で誠実である。

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ギンスバーグ氏の尽力によって、確かに今のアメリカは女性にとって、より住みやすい世間になっていることだろう。だけど、偏見にさらされているのは、残念ながら性別だけでは片づけない問題もある。男女は平等でも、男女ともに課せられる、平等な重荷はそこにはある。「男子は男子らしくあらねば」「女子は女子らしくあらねば」という基本構造は変わっていない。

仕事や大学を許されても、結婚しない男女、マイナーなライフスタイルを過ごす男女は、未だに迫害を受けたりする。男女の差はあるにしても、どちらも同じようなライフスタイルの枠組みからはみ出ると白い目で見られる傾向がある。男女だけではなく、多様なライフスタイルを営む人々も社会的に認められればと思う。社会は改善しても、まだまだ改善の余地は、社会が熟成する余地は残っているはずだ。それを法律の面で支えてくれる新たなギンスバーグを、私はいつか出会ってみたいと思う。

しかし、それはまた別のときに話。