万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

探偵の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

先日から、私はかねてしようとしたことを決心し、上智大学のミステリー研究会に入った。小説を一杯読んだりしているけれど、その中の6割以上を占めているのは、やはりいわゆる探偵もの、推理もの、また広義でのミステリーである。京都にいたころは京都のミス研ものぞいたりはしたけれど、あまりにもプロ意識、またプライドの高い方ばかりで、つい辟易してしまい、ミステリ会を出直すことにしたのである。

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上智の方はまだ2年程度と若く、正直言ってミステリー研究会の何たるかがまだはっきりしていないというより、活動の境界線がいまだに定かではないところがあるせいで、まぁいわば同好会、同じ趣味を持つ者同士が集まったり、ミステリーに関係あったりしなかったりする行動を共にするところである。ちなみに、「みすてりーさーくる」という言い回しを使ったら「あの麦畑に現れる謎の環っか?」と間違われて自分的にかなり面白い勘違いだったから記しておく。

さて前置きもほどほどに、探偵の話してみよう。今日は名探偵コナンの新作を見に行くという行事があって、そのせいで「探偵」っていったいなんだろうと、少し考えるようになった。コナンという作品集は正直あまりなじみがなくって、付いていけるのか心配だったけれど、最初に丁寧に設定の説明してくれるし、問題はそこではなかった。

ただ、もちろんコナンを知っているものならわかるだろうけれど、推理小説の言う探偵とコナンの間には結構大きな印象の差がある。もちろんコナンの登場人物は格好良かったりもするが、往々にして馬鹿なことを妙に納得いかない動機でやったりするようだ。
友達に確認したところ、どうもこの映画は例外ではなく、逆にコナンらしいのだという。

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ならば、「探偵」っていったい何だろう。日本においては光永百太なる人物が1889年に探偵事務所を設立したらしいんだけれど、残念ながら「探偵」という名詞、もしくは職業名の由来や初出は私の知るところではない。動詞としての「探偵する」っていうのも一応あるのだけれど、こちらの方が先だろうと思ってしまう。

小説を見ても、探偵の種類は千差万別。ハードボイルド、アームチェアーなどの横文字に関される探偵、老婆に老人、高校生に貴族、現場百回の興信所のような探偵から推理しかしない、もしくは推理すらしない探偵。それを最大公約数的にまとめようとすると、いったい何になるのだろう。真理の追究なのだろうか?

けれど、真理の追究なら、誰しもがするもの、今現在していなくともするべきものなんだろう。それを言うならジャーナリストだって探偵だし、警察もみな探偵になってしまう。どちらかというと、探偵は結果であって、過程ではない。というのは、探偵は真実を暴き、明かすもので、それができなければ探偵は探偵として存在しえない。つまり、探偵を探偵たりえるのは、正しくあることなのか、と言われるとまたどうも難しい。

なので、「探偵はだれだ」というようなミステリーは、面白そうとはいえ、いまいち成立しにくい。むしろ、探偵のいない探偵小説、つまり読むことで自然消滅するミステリーの方が成立しやすい。現代ではミステリーと呼ばれるもののほとんどがこれに当たる。登場人物が勝手に読者に独白を行い、そのうち話の流れで犯人が分かる仕組みだ。ある意味、我々皆が探偵になるのだろう。

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以前読んだ坂口安吾のエッセイに「探偵方法論」のようなものが歴史家、もしくは考古学者に必要な資質であると論じるものがある。起こった出来事に対してはすべて一様に、つまり起こってしまった殺人事件と同等にわからないもので、事実や証拠、記録と記憶を以てして再構築されなければならない。なら探偵が正しくあろうとすることは、ただの悪あがきかもしれない。

我々が探偵に望むのは、ただただ納得のいく結末と時にはある種のカタルシス。そういう分かりやすさ、理路整然としたありかたが探偵小説の醍醐味なのではないだろうか。非合理な日常から、合理的で回答のある合理的な探偵たちの世界へ、私たちはたまには逃げてもいいんじゃないかな。どうかね、諸君?

しかし、それはまた別のときの話。