「モダーンタイムズ」の話をしよう
ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!
少し反則な気がするものの、どうせ書いてしまったものは自分のものなのでネットで発信しても罰は当たらない。という感じの気持ちで、今日書いた感想文を加筆修正して掲載させていただこうと思っている。ゆえに、しばしお付き合いを。
先日チャーリー・チャプリンの「モダーンタイムズ」を見るという予告があり、私はいつその映画を見たのか思い出そうとしていて、それが中学校の高学年か、高校に入ってからか、それとも二回ぐらい見ているのだろうかと考えた。私の高校の歴史の先生がかなり年を取っていた方だったけれど、教える熱意はあり、今でもその人の自作の教科書が実家にあるはずだ。そしてその矮躯に頭を覆う口ひげ白髭に、軍を思わせる苔色のブレザー姿は、教室の乱雑状態も含め、今でも頭に再生できる。
その方の話ぶりだとだいたいこうだったはず。イギリスから始まった産業革命は、人々に新たな自由や可能性をもたらすのと共に、多くのことを強いてきたのも事実だと教えられた。イギリスで炭鉱が盛んとなり、炭を運ぶのに電車や蒸気機関が発達し、産業のためのスペースを確保するために元々公共の地だった場所が囲い込まれ、所有地にされてしまった。
そこから従来の個人産業は下火になり、人々は大きな町に群がるようになり、都市化がどんどん進んでいく。そうして見えてきたのがマルクスの見た社会構造、資本の所有者とそうでないものとの格差。そして労働者を待つのは低賃金、厳しい労働環境や不衛生な生活環境など、新時代に生じたあらゆる社会問題である。
そのような連鎖の後の方に、「モダーンタイムズ」の世界が現れてくる。「産業革命」と呼ばれるも、実際は1850年ごろからイギリスに始め、20世紀から徐々に確立していく、非人間的な労働によって生産される大量生産を特徴とするフォーでイズムに至るわけだ。「狂乱の二十年代」とも呼ばれるこの時代が茶プリンの映画の舞台になっていることだろう。おそらく、大恐慌の前の1925年ごろと推定される。
映画の中でこの時代を代表する様々なシーンが出てくる。最初はもちろん、工場での非人間的な労働。レンチを回すだけの日々にチャプリン演じるリトル・トランプは新技術を試されひどい目に遭い、腕が痙攣するしてしまい、結局は半狂乱になり仕事を解雇される。その後もストライキの首謀者と間違われ、仕事を転々とし、路上生活をする女性と恋仲になる。改めて見てみると、「モダーンタイムズ」はかなりの秀作で、内容も満載、洗練度も高く、音楽までチャプリン自前の軽快さがあってガーシュウィンを偲ばせる。訴えかけながら、良い作品を作る点でいえば、チャプリンは確かに天才であった。
また、映画の後の方に出てくる百貨店や、生音楽が聴ける喫茶店などがまさに、資本家が生きていたであろう、二十年代の光の側面なのだろう。技術が発達し、大量生産は大量消費を可能とし、やがて必須なものとした。こういう時代からこそ、ビル全体を様々なものを比較的安価に提供できる百貨店が可能になったわけだ。
しかし、その裏にはいつも影がある。現代でも、その影が見えるところから見えないところに移ったに過ぎないと言える節がある。巨大企業がバングラデッシュなりベトナムなりに移っただけで、劣悪な環境でびた一文のために働いている現実は、今も根絶されてはいまい。ラナ・プラザからもう六年もたっているにもかかわらず、だ。
だからこそ、今日日も「モダーンタイムズ」が鑑賞されるのは、そういう念を訴えかけるためなのかもしれない。今でも、我々にはまだ社会をよくする余地はある。現代だからこその社会的課題はいくらでも残っている。私はそれらに対して、何かできるかな、と思う日々である。
しかし、それはまた別のときの話。