万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

「有害な期待」の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ、

今朝も少し遅めに目が覚めてツイッターを見ると、安定的に河野太郎氏の投稿に不平を言う人がいた。これはもうよくあることなので特に気にすることではないとも思ったが、改めて見ると「あれ?」と首をかしげることになった。その内容としては、ワクチン担当大臣である河野氏が先日の強力な福島沖の地震による被害に触れずに、短い文章で「ワクチンへの影響はなかった」というものだった。

これに対し不平を述べるある人は「ワクチンより先になぜ被害者への慰めのメッセージ一つぐらい投稿しないのだ」という返事が多く寄せられ、ツイッター上で「いいね!」やリツイトで拡散された。これに対しやはり私は疑問を抱いてしまった。もちろん建築物や財産、人に対する被害は多かったはずで、今日本政府としてその被害状況の確認が進められ、できるだけ早く新幹線の復旧や人々一人一人の日常を取り戻すことが重要であろう。

けれど、同時に今なお続いている新型コロナウィルスとの戦いにおいて、ちょうどワクチンを載せた第一便がブリュッセルから届いたばかりという状況で、今後のワクチン接種の見通しの上で河野氏の投稿は正直言って私自身も気になっていたところであり、それを読んで安堵したのはおそらく私一人ではない。

にもかかわらず「今それどころではない」という返事が来るのはなぜだろうか? 公人であるから、有名人であるからと、河野氏だけではなくSNS上の様々な人物に日々寄せられるメッセージがあまりにも当たり前になってきているのだけど、それを単に有名税として片付けるにはあまりにも酷で、そういった態度を許容してしまう結果となる。

f:id:yorozuyawakarando:20210215162543j:plain
以前、私自身もアウトプットの話をすることがあったと思うけど、多くの場合は最近「言わないでおく」「触れないでおく」「そのままそっとしておく」ことも一つの選択肢であり、むしろ場合によって正しいこともあるということが実感できている。上の河野氏の例などからも分かる通り、ここには「一般人」が「公人」に対して「期待」を寄せるなり、その「期待」が「裏切られた」と感じたらがっかりするという構図が現れてくる。

公人であることは、決してその人に公共放送並みの期待を寄せて当たり前ということでは決してない。なにせ、個人だからである。地震の後、台湾の蔡英文総統は応援のメッセージをツイッター上に載せ、これが悪いとは全く思わない。けれど、同時にこのようなメッセージを送ること自体が当たり前であるとも思わないし、いくらこれがむかしからの習慣であるにしてもそれに対し勝手に「期待」することはあくまで個人の押し付けでしかない。

この「習慣」が崩れるところを見ることができたのは、先のアメリカ大統領選である。トランプ氏による不正主張という特殊な条件の中、新しいバイデン大統領の就任への祝いのメッセージを送るのを渋った各国の長が何人もおり、決して一斉に祝いが押し寄せたわけではない。それを期待することがいかに正当化しにくいのか、お分かりかと思う。

f:id:yorozuyawakarando:20210215162712j:plain

勿論政治家が国民の代表である以上、彼らに期待することは当たり前である。けれど、彼らも公人であると同時に人間であり、政府の自分の役目を優先するのも時間が有限である限り当たり前である。この場合、現在日本の政治家の中で最もフォロワー数が多い河野氏だから、という正当化はあまりにも乱暴で、有名だからと言ってフォロワー全員の気持ちを汲んであげることなど不可能に等しいし、それに対し責任を負わせることはやはり「有害な期待」とも言える代物だと思う。

もう一つ言うと、最近どうも「活動家」(本人が自らその称号を使用しているかどうかもまた問題であるけれど)に対するこうした有害な期待も目立ってきた。#KuTooなどで知られる石川由美さんがここではいい例かもしれないが、基本的になにかしらのマイノリティー(または権力関係の支配される側)を擁護する「活動家」によく見られる。
これらの人は本来「公人」ではないけれど、インターネット到来後、公人と一般人の間の微妙なラインが驚くほどのスピードで曖昧になってきている。

つまり「あなたはこの問題に対して声を上げているのに、なぜあの問題に対して何も言わないの」というように、このように活動している、またはある活動の「顔役」となっている人物に、また別の問題をも解決してくれると期待を寄せるのである。そこには最初の活動をするのにその人物にいかなる負担がかかっているのか、またその人物がそもそも自分を「活動家」と認識しているのかを無視してしまう暴力性が伴う。

f:id:yorozuyawakarando:20210215162743j:plain

そこでもう一つの例を出してみよう。これは私自身そこまで自体を知悉していないのだが、ミャンマーの軍部がクーデタを起こした件で、世界各国でデモ活動が行われているようで、日本では特に青山の国際連合大学周辺で活発になっているらしい。

この状況で、共同通信のニュースでシンガポールにおいて「無許可集会で、日本人2人を捜査」との一報が排他今日の朝。それに対し、全く別の話題で日本に住むシンガポール人の留学生のチョウ・ジーイン氏に対し「あなたの国で日本人が抗議デモしようとして逮捕された、自国の政府に抗議してください、お願いします」との返事が来る。ここまで来るとわざとらしくて笑えて来る。

ここから見えてくるのが、こうした有害な期待を抱くのは決して「悪意」を持った人々だけではなく、むしろそれ以前のその人物の発信、または活動に賛同してこその期待であることがよくわかる。自分は無力だけど、この人なら、と勝手に期待をして、自分はあくまで「応援をする」という安全な立ち位置を死守する。

私は決して「活動家」と言えるような人物ではない。それでも、今まで色々やってきて「期待してるぞ! あなたならできる」と言われたことが何回はある。振り返ってみればそれを重荷として感じてきたこともなきにしもあらずだ。だから彼ら彼女ら公人の気持ちをわかるとは言えないけれど、その気持ちをわかろうとする努力を絶えずしていきたいという原動力にはなっている。

しかし、それはまた別のときの話。