万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

自分の話しをしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

おくればせながら、自分の経歴の話をしんがら、この屋号の説明をしたいと思う。
どこまで遡ったら良いのやら、今の自分と子供の頃の自分とはやはりつながりが薄いように思う。というのも、小学校では私は「中国」とか「果物」とかを話題に発表したりして、日本という国を意識したことはほとんどなかった。常々思うが、人は生きれば生きるほど物事を区別し、峻別してしまうが、子供はまだそうではない。だから子供の頃「ポケモン」や「遊戯王」などのオランダ語吹き替え版を見ていても、それが日本で作られるものだとは考えもしなかった。小学校勤務の父は骨董品と犯罪小説が趣味で、母は鉄道関連会社で働くばりばりのキャリアーウーマン、妹は私と正反対で運動抜群で快活な性格だった。

そんな私は今では趣味で日本の小説を読むのも、日本旅行をするのも、翻訳や通訳をするのも当時の私からしたら全く思いも寄らなかったことだったのが正直なところだ。
日本と違い、学校同士の格差は殆どなく、進められるがままに生きてきた私が行き着いた場所がここなだけだ。でもそれはきっと違うはずだと、今なら思う。自分は自分の人生の主体であることを放棄していたからそういえることで、実際他に行き着く先はいくらでもあった。

大学を決める段階の私は心理学科と日本学科で決めかねていたが、結局何を基準に日本を選んだのも覚えていない。高校二年の夏ごろから無心に漢字を書いていたのが大きかったとは思う。半分は惰性で、半分は「日本語なら一番になれる自信はある」という、少し卑怯な傲慢が理由だったかな。それでめでたく日本学科に入ることになったが、
入学当初の自分と長崎の頃の自分、京都の頃の自分と今の自分でもやはり違う。
そして今は学部卒業寸前、再び進路を決めるときが来たわけだ。こうして書くのも一つの自己分析の方法だとは思うし、セラピーでもある。今は広く浅く、いろんなことをやっている。オランダ人の自分、日本で培った「自分」、中国語に未だに執着を持っている自分の屋号を万屋「和華蘭堂」にしたのは、そういった自分の総体を表すためだ。

自分というのはきっと、確固たる物などではなく、万華鏡のような結晶ものだと思う。
時間が経つにつれ多くなったり、崩れたりするし、見方一つ変えれば見間違うほど違く見える。それが見ている主体が本人だとしても。

しかし、そこからはまた別のときの話。