万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

怠惰の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

私は、とても怠惰なのです。

なんて、藪から棒に言われてもねぇ、という感じなのだろう。
実際、この言葉が頭に浮かんだ時、私もそうなのです。
けれど、やはり思っていることには変わりない。私は怠惰だよなぁーって思う。

この頃、やっていることと言えば修士論文の執筆と読書、息抜き(という度合を越すこともあるが)に友達と会って食べたり飲んだり、という繰り返し。そのなかで、文献として本や本屋関連ではあるけれど、どちらかというと結果的に本屋をやっている人々のエッセイを読んだりしている。有名どころだとやはり松浦弥太郎氏だろうか。他にも「新井賞」の新井見枝香さんの文庫本や、盛岡はBOOKNERDを営む早坂大介さんの本。ミシマ社の創立記や、完全に本から離れてこの間多彩多芸な安田登氏がそのミシマ社から今年出した『三流のすすめ』も11月読んでいた。こう並べてみると、なんとも言い難い、ある意味陳腐な組み合わせだね。でもそれぞれ文章は秀逸で、どれとっても楽しい読書経験はできると、勝手ながら私は強調したい。

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そうしていると、読んでいるうちにやはり刺さる話はある。特に『三流のすすめ』はもう初めからその期待を胸に抱きながら買ったのだけれど、こういうエッセイ本はなんとなく自分の情けない部分を一旦掬い上げ、「でもそれでいいんだよねぇ」と、なんとなくゆるふわに心が軽くなるようなものだ(実は、件の安田氏の本は半分以上中国の古い逸話だが、それはそれで)。という言い方をするとさすがに怒る方もいるかもしれないが、やはり一定の人はこのような目的でエッセイを読んでいるのではないだろうか。

そして実際「それでいいんだよねぇ」とは思う。思うのだが... 私個人に対していうと、なんとも屈折した、わだかまった思いがあるわけで。私はそういう読み方をしている自分を、うかつにも「怠惰だなぁー」と思ってしまったのだ。どういうことだろう。

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人は生活していく上で、色んな経験をして、これに対して色んな感情を経験と結びつけることになる。人と会って、分かれて、恋をして、大切な人をなくして。でも同時に満員電車で舌打ちしたり、近所のおばさんと朝すれ違って気持ちの良い挨拶を交わしたり。かと思うとある真夜中に起きて、十年前の大きな決断が果たしてあれでよかったのか、と今更ながら考えたり。人間の感情の機微はとても微妙なもので、中々自分でもわからない。「強いて言えば腹が立っている」「なんとなく寂しい」という程度の起伏は、日常のいたるところに散らばっている。

普段であれば、多分一々それらの感情を言葉にしている人はあまりないのではないだろうか。一部は日記に載ったり、友人との会話に出たりするけれど、多くは頭の中に現れては、発酵してゆき、また脳の片隅に収納されていくだけ。この収納のプロセスの手助けをしているのが、エッセイというジャンルなのではないだろうか。

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エッセイを書く人は、皆が皆そうとは限らないけれど、多くはどこか偏っていて、変形していたり偏愛に身を投じたり、ともかく形は正方形よりも、鋏で証明写真を切るときに間違えて、一か所だけとがっているような人たちだと思っている。一言で言うと完ぺきではない、ってことだけど、これは味気ない。特に上に挙げた人たちがなんだか皆なにかと戦って、負けては買って、ひとり相撲をとりながら成長してきた人たち。

その過程、描かれたエピソードの節々に本人たちもやはり色んなことを考え、感情が脳裏をよぎっていたことだろう。直接的にそれを書くこともあれば、行間を読んで、別の本で裏話的に書かれたり、ラジオで話されたりする。そして、それを読んでいる自分が学んでいたのは、敢えて言えば「感情の文法と語彙」のようなものではないだろうか。感情はとてもあやふやで、身体の中の物質に還元できないところもいっぱいあると思う。病院に行って、採血されたあと医者に「あなたは今怒っていますよ」と宣言されても、なんだか変な気分になることだろう。その気分をなんというべきか...

少し脱線したが、何が言いたいかというと、文学よりも、エッセイの方が、我々が日々経験しているあれこれの感情をことばにするための道具を与えてくれているのだ、ということだ。読んでいて、「そうか、あの時のモヤモヤは...」と感じたのは、むしろ私にとってはノンフィクションの方であることが多い。こういう風に、本で得たことばたちを使って、私は自分の感じていることをなんとか脳内で整理している。

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この「自分の感情を、自分の言葉にせずに、他人の言葉を利用して処理する」という自分がなんとなく生まれてこの方やってきた行為を、先ほどなぜだか怠惰に思ってしまった。どういうことだろう、どないしようと、頭の中で慌てふためく。とてもではないけど、この感情を文章にしなければ、と思いながら気づいたら書いてて、30分。必死に書いたから、怠惰ではないのかも。でも、やはり他人のふんどしで相撲を取るように、私は他人の言葉で自分の感情を無理やり嵌め込んでやしていないか。もっと、私だけのことばだけで表しうることはできないだろうか。そう思って、また十分。

結局は怠惰でもいいんじゃないのかな。むしろ、私がエッセイから学んできた教訓はつまり、「とがりを、偏愛を大切に」だったようにも思う。エッセイに出会って、読もうと思ったのは、間違いなく私。なら、この感情の表し方は、初めは借り物であっても、今は私のものなのだろう。とりあえずこの辺で諦めて、昨日買った橋本亮二氏の営業の日々を綴ったエッセイにでも戻るか。

しかし、それはまた別のときの話。