万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

コロナ下の就活の話をしよう

ようこそ、万屋和華蘭堂へ。

真夜中の一時過ぎ。最近は孤独を紛らわす目的もあって(というかそれが主な目的として)英語でのインターンを受ける友達と毎日零時前後に電話で英会話をしたりして、英語に疲れたらただただとりとめのない世間話や雑談を一時間ぐらいして一日を終えている。そしてそこから読書だったりドラマ鑑賞だったりしているうちに朝の三次になって、特に眠くもないのに床について、起きたら十時過ぎ。修士一年目の全課程を終えて、そんな生活が一週間前から続いている。

一応、今回久しぶりのブログということで、去年の夏からちびちびとやってきた就職活動を振り返りながら頭の中を整理しようというのが今日の目的。いや、そんな目的は途中から生まれたようなもので、むしろ友達との会話が楽しくてしょうがなかったから、色々自分の心の中にある形のない思いを久しぶりに文章にしたくなったのが正確だろう。見てみれば最後の投稿が去年の九月のJapan Timesの記者と茂木大臣の件で時間が過ぎるのが早いものだ。ともかく自分の文章の癖が健在で苦笑してしまう。

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個人的には、就活をかなり早い段階で開始したなぁーとは思っている。去年の夏の間は外資の通信社だったり日本の新聞社のインターンだったり受けたが、どちらも面接で落ちて、あの頃は授業もそこそこ忙しくてコロナも落ち着いたように見えて、「まぁこんなものだよね」と思って一旦インターンを保留して、結局インターンをせずに今にいたる。それが今になってやはり痛いと思ったりするけど、日本の就活って落ちる理由も分からないから、その痛みの正体が鈍痛というか幻肢の痛みのようで今でもよくわからない。それもそんなものかもしれないけど。

そのあと、気が付けば10月末。大学院の去年の指導教員が主催してくれているメディア業界の勉強会で、大手のテレビ局などを色々話聞くことができて、在都の大手は全部終わっていたけれど、在阪一社に心を持っていかれて、真面目に面接を受けたらいつの間にか四次面接で年明けに大阪まで繰り出す。

新幹線代片道だけ出してもらって、これもまた「まぁこんなものだよね」という気持ち。人事の人たちが他社よりも血が通った会話ができて、Zoom上で出会って本社で会うと感慨深いというのは大げさだけど楽しくなる予感がしていた。四人でグループワークをしたやつらで作ったライングループに、あれ以来一回も通知着ていない。後から考えれば、あんなに受けやすいZoom面接、多分これ以降出会うことがないだろう。長年人事畑の母に話したら、そのよさを共感してもらえていい親子会話の記憶として残る。

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そしたら、東京に戻る新幹線の中で食べた牡蠣弁当で食あたりして四日間下痢のオンパレード。授業の合間で受けた社長面接中も実は下痢を抑えるのが手一杯で、結局はなぜか封筒で不合格通知が届く。内定一歩手前で一社目終わって、その時また「まぁ、そんなものだよね」となったけど、一か月後の就活本番前夜の今、そこそこ悔しくて、不安を募る。新聞社大手三社ともエントリーシートで落ちて、コンサルを出したりなけなしのメディアを出す日々だけど、どうにもならないかもと思ってとりあえず説明会に応募して受ける日々。

去年の夏から、思えばこんな短い文章でそこそこ要約できるものだけれど、もちろんこんなんでは私の気持ちを表せたとは言えない。短すぎて、固有名詞があまりにも少なくて、実際のコロナ下の就活というテーマよりは、やはりどこか文学チックに自分の過ごした半年を脚色したがるの人間の(いや、私の?)悪い癖。そもそも、気持ちを表すってなんやねんと、なけなしのツッコミを入れたくなる。先週読み終わった武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』(朝日新聞出版、2020年)がだいぶ心に蟠っているみたいで、どうも彼の考えをトレースしながら文章を書いているこのごろ。

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そもそもこの半年の出来事の実感は、おそらくどこにも存在しない。瞬間瞬間として存在するのも怪しいし、全体を通しての実感も、その記憶を一連として思い出してみる努力をしたのも今が初めてで、言うなればその記憶自体日々改ざんされ続けている。そんなごちゃごちゃな色々を「気持ちを言葉で表す」というのなら、その素材となるのは一体何なんだろうなぁとしみじみ思う。それはあくまで今この文章を書いている現在の私でしかない。その自分も書いているうちの過去の向こう側に消え去っていて、後ろ姿さえぼんやりとしか見えない。

武田さんの言う通り、元々の文章とその要約はもはや別物で、要約を読んで元の文章を体感した勘違いするのはやはり間違いだろう。そうだとすれば、自分の過去の体験を言葉に表す行為もある意味その「要約」という行為に近いのだろう。一部の読書研究家がいうように、読んでいる間にしか元の文章が意味を持たないし存在しない。読んだ文章を要約する時、要約を読む人だけではなく、すでに要約をする人でさえも、読んでいる間にしか元の文章が意味を持たないのであれば、原文を意識しているつもりでもそもそもそこに存在しない「原文」という幻を素材としている。

しかし、それはまた別のときの話。