万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

「向き合うこと」の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

いきなりだけれど、一つまじめっぽい話にお付き合いください。

向き合わないことは、単純だ。だって、毎日生きてこんなにも他のことが起こっていて、気づいたら目の前の風景が変わっていて、向き合う対象がいつのまにか違って見えたり、判別できないほど変わったりする。これをちゃんと見極めて、見続ける、考え続けることは、当たり前ではなく、ある程度の努力を要する。ましてやこれをうまく言葉で表わすなんて、目移りしているうちにどんどん自分が何をやっているかわからなくなる。

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この頃、毎週漫画『ブルーピリオッド』のアニメ版が配信されるのが楽しみだ。主人公の矢虎が絵に魅了され、でも文脈もなにもわからずに飛び込んで、苦戦しているかと思ったら壁をぶち破り、ジャズ調のBGMに一気に圧倒されてしまうような絵をデリバリー。これをまた書いているのが漫画の先生であり、アニメに関わった人たちがいる。彼が今成長している、今これが分かった、カナシイときはこういう顔をして、ウレシイときはこんなふうに笑うのだと、一々自分で決めている人がいる。こう考えるとしごとの量というか、注ぎこまれた思いの丈というものが、少しだけど思いをはせることができるのだ。見ているこちらがあたかも自分が成長していると錯覚をする。

けど、これを見てただ成長した気になって終わるなら、ただの良質なエンターテインメントなのだろう。終わってたまるかと思って、むしろ今文章を書いている。矢虎は初めに、先輩の絵に魅了され「あんな引き込まれる絵を書いてみたい」と思うようになるけれど、けっして慢心はしない。調子に乗ることはあっても、いつも相手と自分の評価の間にもまれ、評価の基準、絵との向き合い方を変えながら右往左往する。彼に憧れるというのなら、結果だけではなく、彼が成長する過程をも、自分なりにトレースすべきだって、書きながら思わずにはいられない。

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別の話だけれど、ここ一か月パソコンの某キーが壊れていて、色んな言葉を書くのに一工夫や変換、コピペというものを利用して書いている。当たり前だったこと、できるはずのことができなくなる、思い通りにならなくなることを久々に経験して、やせ我慢もあるにはあるが、これはこれで清々しいとあまのじゃくな私は言い切ってしまう。

先日、武田砂鉄氏のラジオで以前読んで感動した伊藤亜紗先生さんをお迎えしており、「思い通りにならない我々の体」というテーマでトーク。時間があっという間にすぎる。いわゆる障害を持った方だけでなく、我々人間全員は今自分ができると確信していることが、できなくなることがある。単に体調不良もあれば、今日はなんだか気分が載らないものから、指の動きがとろかったりするピアニストもいるだろうし、頑張ってもよいタイムがでない陸上選手だっているだろう。

私はといえばここ2週間ほどの温度低下で体の節々が筋肉痛になりやすいと気づき、いよいよ二十代後半に差しかかったと気づく。体の感覚、体の状態、自分の毎日生きている体のはずなのに、以外と向き合っていかないと認識が遅れてしまって、いざって時に思い通りにならない。ジムに行って体を鍛えることも重要だけど、体を使う上で能動的に感覚を研ぎ済ますのも重要。鬼滅の刃のような精神論の様だが、これに「論」はない。個人個人が、一つしかない自分の体と向き合っていくしかないのだ。

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なぜこんな話をするかというと、体と同様、心の動き、自分の能力というものも、一定の結果を得ることができるわけではない。日常には思いがけないところにノイズがあったり、「自分ならこれぐらいは余裕」と思っても意外と思い通りにいかないことの方が多い。逆に、今日私が起きて、こんな文章を書くとは思わなかったし、書けるとも思っていなかった。むしろ、しばらくは筆不精で、なんだか罪悪感めいたものがあったぐらいだ。

これと向き合うには、色んなきっかけがある。日常の中から、最近みているアニメや、聞いたラジオ、友達から聞いた創作活動の話や本業の作家が発する心を込めた独書への恋文。この頃、修論を書かねばと力んでいて、矢虎同様、受験のための絵よりも、自分と向き合うための絵(文章)を必要としていたのかもしれない。これに気づくには、ちょうど環境が整っていたのだろう。

けど、上に述べた行動の一つ一つは、やはり自分が主体だ。ラジオを聞いたのも私、イベントに行ったのも私。ならば、自分と向き合うこと自体は、こうした色んな場にいる自分を統合して、一つにまとめて、これに「これでよかったのだ」と評価をつけることだろう。また来週には違う経験をして、評価を改めざるを得ないのかもしれないけれど、他人に比べてこれができないとだめだ、昔はこれができたのに今ができないことを、思いのほか思いつめる必要もないのかもしれない。今、自分がどういう状態か、輪郭をはっきりさせるだけで十分楽になりうる。

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昨日、某本業の作家の講演会で「自分は小さいころ、小説はなんとなく、日本人しか出てきちゃいけないと思い込んでいた」という発言があった。故に、彼女も当然小説を書くときには登場人物が全員日本人。本人は生まれが台湾だが、日本で成長し、自分の経験を日本語で描く上で、このように初めはある意味不自由な思いをしていたのだろう。

ならば、自分はどうだろう、と思わざるを得ない。小説を書いているときの自分の在り方は、オランダ人としてのルーツがどこにあるのか。日本語で書き始めてから、描く題材はあいまいにした時でもやはり日本人のような毎日を過ごし、日本人的な悩みを抱く人間が多い。むしろ、オランダ人が出くわす人生の苦労がどんなものなのか、経験しなくなった自分には描けなくなっている。高校や大学の友人の就職が大変と聞いても、どこか対岸の火事。これもやはり自分の在り方の輪郭を考える上での一つの向き合うべきポイントではないだろうじゃ。

アイデンティティをある意味毛嫌いしてきたのも自分だ。だけど、アップデートも必要。今週、最近ヒカリエの上の方に開店した「渋谷〇〇書店」を訪れ、店員さんとひとしきり会話をした後、なぜか手に取ったのがアミン・マアルーフという方による『アイデンティティが人を殺す』というエッセイ集だった。これも驚いたことに、昨日の講演会のテーマにフィットしているようで、近日中に読みたいと思っている。

最後にもう一つ。上に描いたキーボードのキーが壊れ、一つ面白い発見があった。「先生」という言葉を書くときに普段は「先に生まれた」という意味合いだろうけれど、返還と工夫を通して「先ず生きる」というように入力するようになった。ということで、先ず生きることにしたいと思う。

しかし、それはまた別のときの話