万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

ドキュメンタリーの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

4月に日本に来てから、今までの勉強してきた「日本」や「書籍史」などから少し趣向を変えて、「メディア」という分野を勉強してきた。研究分野として違う要素は色々あるが、あえて一つ上げるとしたらそれはメディアには「業界」が付いているということだ。日本を研究する人たちも、書籍史を研究する人たちはもちろんそれなりにいて、シンポジウムや発表会など、公の場で発表することも多いけれど、その研究内容が一般向けであるとはいいがたいもので、循環の幅が狭いというのだろうか、内輪で終わることが多いのだ。

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その点でいえば、メディア業界は自分が去年まで思っていたほどよりずっと開けたところだったと、最近思い始めている。それにももちろん限界はあるけれど、放送メディアに関して言えばよるよいもの、より良い作品を世に出そうという活動は様々な方面から行われていると、思い知らされるようになった。

今回は(仕事内容は本当に裏方ばかりだが)TokyoDocsというNPO法人が行う、Colours of Asiaと銘打って、四日間かけて行われるイベントでスタッフとして参加させていただき、現場を見学させていただく機会を得た。ということをいえばいかにも大学に提出する感想文のようであれだけれど、自分が思うよりもこのイベントから得ることがあったので、ここで一つ文章にしたいと思った。

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まず少し、このイベントの趣旨を伝えよう。このイベントに集うのは日本をはじめとするアジアの映画監督、プロデューサー、ディレクター、映像制作会社など放送メディアの有識者である。大きく分けて、新しいプロジェクトを引き受け、経済的支援をする側と、ドキュメンタリーの企画を持ってきて買い手を探す監督がいて、このイベントがそれぞれが出会える場になっている。競売会場というか、婚活会場というか、普段会うきっかけはないけど、あったら面白いんじゃない、という人たちをくっつける場なのである。

ここで無事マッチングされて、作品化が決まった企画は、その翌年NHKのドキュメンタリー枠で放送されることになる。実際、今夜上映会が行われた去年の作品は先月無事NHKでデビューを果たしている。今年はベトナム、インド、フィリピン、インドネシアの四か国で、夢を抱く子供たちのモノガタリが描かれて、今日は勤務後に残ってそれらの作品を見る機会を得たわけだ。

個人的な感想だが、ドキュメンタリーの特色として、一番リアリティーを与えているのは、「雑音」なんじゃないかと思う。映像作品には何を映し、何を移さないかという作為性はつきもので、アニメともなればどんな音も必ずと言っていいほど人間の意図が反映されてこそ組み込まれることになる。ドラマや映画、リアリティー番組だって、セットを作ったりして、本来そこにある生活音が遮断されることが多いのだ。

ただ、ドキュメンタリーにはそういう余裕は、往々にしてないに等しい。本物の人間の映像を取っているわけだから、業界用語でいえば「アクセス」という重要な概念とどう向き合うのかが勝負になってくる。どのように被写体と接触を図り、彼ら彼女らと信頼関係を気づき、維持するのかという過程の中で一回しか取れないショットが必ず出てくる。そういう状況で、雑音のような、直接話の筋に影響のないものにまで気を回すことはなかなかできないと、素人ながら感想を抱いたわけだ。

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だからこそ、これらのドキュメンタリーにはほかの映像作品にはない魅力を見出すことはできた。小説やラジオなどは、そもそも「真実性」というのは成立しにくい概念なんだから問題にされないことも多いが、テレビ制作の場合はヤラセや捏造番組の蔓延る中、「真実性」は第一前提になる。

ドキュメンタリーという手法は、普段知られることの少ない「現実」を伝えることにとても適しているように思う。その題材の選択にはもちろん作為性はあるが、その枠内では嘘をつくことはとても難しいことだ。場合によっては数年かけて制作されるドキュメンタリーの場合、雑音の魅力と、「アクセス」という形で被写体との良好な環境づくりなど、物語そのもの以上に製作上の努力を知ってこそ輝くところもあり、自分もこれから見る場合はそういう目で作者や制作環境を合わせて「ドキュメンタリー鑑賞」を極める第一歩を踏み込んだ気に、勝手になっているところだ。

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最後に一つ付け加えると、上のように言ったように、このドキュメンタリーという世界は広いようで狭いのだ。今回お世話になった運営側のATPの方も、できたら若手の映画監督や法曹関係者がもっと気軽に出会える環境づくりをこれからもしたいと夢を語っていただいて、かなり感銘を受けたのだ。海外からいろんな方が集まる機会は未だに稀少で、普段は彼らはそれぞれ別々の世界で生活していて制作している。業界が発展するには改善できるところも多いが、それに向き合っていく投資を持っている人の存在をしって外野から見届けたいと思う次第だ。

次のステップはしかし、これらのドキュメンタリーを見る側である。ドキュメンタリーというジャンルの魅力を伝えたり、知らない人たちがそれに気づくためにどうしたらよいのか、それを目的としている組織がどういう活動を行っているのか、出版をメインとしている私からして浮気しているようで踏み込んでいくことも場違いかもしれないが、逆に自分の分野でこういうイベントもあるのか、出版だったらこういうスタイルはそもそも成立するだろうか、示唆に富んだイベントでもある。

作品の制作過程は、映像であれ文章であれ、イベントであれ芸術作品であれ、いつも様々な人たちが繋がっていることでようやく成り立つものである。普段は違う分野で働いているけれど、その輪の中に入っていれば各人の作業は、いつも他のだれかの作業に、そして最終的な作品に何かの形で爪痕を残す。だからこそ、そのつながりを深め、深めるための機会を作り、輪内の人間同士の関係をより良いものにする作業は、とても意義のある作業だ、と抽象的な教訓を得て、今後の生活に役立てていこうと思った。ややまじめくさったいいかたではあるけれど。

しかし、それはまた別のときの話。