万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

スプーン理論の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

読んでくれている皆さん、今日もお疲れ様です。今日はそんな挨拶から始めていきたいと思う。そして言いたい。あなたが今やっていることは、当たり前ではない。あなたはあなたで必死に日常を生きている。必死に、という認識はないかもしれないけれど、人間というのは自分の体の状態を維持するために食べたり飲んでそれを糧にしていると同様に、精神的な糧を元に精神安定を維持するためにもなにかしらのストックが消耗されたり補充されたりしている、と思うことはある。

もちろん、そんなことには科学的な根拠があるわけではない。科学に言えば、すべてはおそらくほとんどがドパミンなりアドレナリンなりのの化学物質の循環で精神安定が決められたりするし、身体の作りや生きていく上で起こる老衰でそれがうまくいったりいかなかったりする。本来なら、そこに「精神的耐久力」みたいな概念が成立するはずもない。

f:id:yorozuyawakarando:20200109224210j:plain

ただ、身体と精神の関係はそう簡単ではない。全部が化学物質だとしても、我々の認識によってその物質の循環に何らかの影響を及ぼすことは可能なのかもしれない。それすら否定するほど私だって達観していないから、最近そう思うようになった。状況にもよるし勿論限度はあるにせよ、行動やそれに対する反省的態度で、人は自分の精神安定を左右することはできるはず。できなかったら、責任とか、色んな概念が成立しなくなって困るしね。

私も専門ではないので勝手な解釈で恐縮だが、去年からずっと考えている「スプーン理論」に照らし合わせて考えてみることにする。この理論は、非健康的な人(非常にあいまいな表現だが)が生活を行う上で一般人とは違う条件でいかに一般人らしく一日を終えることができるか、というクリスティーン・ミセランディノという人が提唱したある種の思想実験である。

f:id:yorozuyawakarando:20200109224608j:plain

彼女はルプスという病気を患い、「それって実際どんな感じ」と友人に聞かれ、咄嗟にテーブルスプーンを使って説明を試みたことに由来する。元々の例は病気であるが、その後は障害者、特に「見えない障害」などが例として使われるようになった。私は特に自分が何らかの「病気」を持っているという認識はない。ただ、小学校で同級生で腕の片方に指がないクラスメートはいた。必然的、読んでいるうちに私は友人の方に感情移入することになった。

このエッセイの中、ミセランディノはテーブルに12のスプーンを並べ、友人に自分の日常を事細かく語らせた。そして、一一の行動、もしくはその累積を、「一スプーン」という単位にして、その一日の体力のバロメーターとした。すると、12スプーンでは足りない、と友人は訴えるが、もちろん病気を抱えるミセランディノ自身の方が余計に体力を使い、それ以上に少ない枚数で毎日生きている、と説明する。

f:id:yorozuyawakarando:20200109224847j:plain

エッセイはある程度文学的ではあるが、その骨子は大事なことを浮き彫りにする。まず、我々の「健康観」が歪んでいる、ということだ。人間が社会で生きるうえで、時間的・空間的縛りを受ける。仕事や習慣によって生活空間・時間は違うこともあるが、往々にして似たり寄ったりの生活をしているのが現代社会である。

現代社会の多くの都市病理と呼ばれる生活習慣によるそれぞれの「病理」は、我々は生まれた体も微妙に違う、育ちも違う、運動量も脳の使い方も違うのに、それをひと固まりにして「一般的」と呼ぶことによる。そして、「健康」であることはつまり、その「一般的」を恙なく行うことができる状態のことかもしれない。スプーン理論を唱えミセランディノから見たら微妙に論点ズレていないこともないだろうけど、「健康」でありつづけることに自覚的であることの大事さというのは彼女の言い分に近いのではないだろうか。

f:id:yorozuyawakarando:20200109224946j:plain

これは医学的な意味での「健康」は違う。病気とは物理的なものだし、つまり、社会的な観点から見た「健康」である。スプーン理論というものは、我々が毎日行っている行動を反省的に見、それが自分にとってどれぐらいの負担になっているのか、一つの指標になる。とても主観的で一貫性のないものだが、考えないよりはましであろう。大事なのは、自分の疲れ度合いを数値化し、可視化し、意識化することである。

朝起きて、今日はこれぐらいやろう、というコミットメントをするのに似ているとも思う。自己認識は、精神安定のための第一歩である。そして、自分が今精神的に不安定になっている、ということに気づけば、行動に移すことができる。朝の満員電車に乗るのが必須なら、せめて座れるために早めに家を出るとか、いかに自分の日常の負担を自分が抱える程度のものにできるかを考える。

社会の「健康観」その者を変えることは、なかなか難しい。働き改革の記事をいくら書いたからとて、こんなブログをいつまで書いたからと言って、変わらないときは変わらない。ならば、人間が自ら今の社会に順応できるためのツールを与えるまでだ。スプーン理論は、そんなツールの一つであると私は思う。なにより、人間というのは自分で何かを決めることで自信がつくものだ。

f:id:yorozuyawakarando:20200109225133j:plain

もしかすると、自己決定の実感も化学物質によるものかもしれない。けれど、それのどこが悪いのだ?自分の体がそういうものに支配されているのなら、自分から逆に支配するまでだ。感情があると言っても、それに全く規則性がないわけでもないし、生きていれば自分を知ることになる。その知識を生かせばよい。

実生活は「さざえさん」の世界ではない。自分にとって何が「健康体」なのかは老いていくことに連れて変わることだ。我々にできることは、そのことに自覚的であることのみだ。個人的には「自覚」という言葉が非常に懐かしい響きで心地いい。

しかし、それはまた別のときの話。