万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

境界の話をしよう

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言葉に出さずとも、人間は有史以来、いや、それ以前からも「境界」というものを意識して社会生活を送ってきた。そのため、どの学問に視線を向けてもたちまちそれに関連する理論にぶつかってしまう。それはたまには夕日が水平線の下にしっとりと水をたたえるように消えるような美しいものだったり、そして時にはどす黒い人間の独善的な本能を浮き彫りにするものである。今日はそんないくつかの例を出してみたいと思う。

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古代において、境界というものは特に我々が今では「宗教」ということばと結びついて考えられる。宗教の誕生に関してはもちろん諸説あるのだけれど、今回はその一説を取り扱うことにしよう。この説では、宗教の下は集団生活であり、その集団で行われる出鱈目な動きが段々形式化して「舞い」となり、その後その舞いには後付けのように意味が付けられ、「神楽」という記号化された舞いに進化していく。

もちろん「舞」も「神楽」も日本的なものだという意見はあるけれど、この場合それこそ記号であり、言葉自体のニュアンスよりそれが代表するカテゴリーの方を見ていただきたい。つまり、このように古代社会に、おそらくホモ・サピエンスの誕生から数百年後に最初の「記号化された行動」が誕生する。

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これがなぜ大事なのかというと、これには物理的な利益がほとんどないという点である。皆が皆木の実を集め、狩猟をし、原始的な食べ物を作ってるだけで精一杯だったグループから、それなりに余裕を持つ集団は人間の本能に任せ「祭り」を誕生させる。
今のように精神的健康が重視されるわけではもちろんないけれど、集団行動、集団で何か一つのものを共同で行うことは、我々でも理解できるほどにストレス解消になる。

そして、そのような集団は「集団的意識」を持つことになる。勿論国家の生まれよりずーっと以前ではあるが、霊長類学者のダンバーなどが提唱するところ、150前後ぐらいの人間しかいないこういうグループでは、これはまだ達成できることである。想像してみれば、中学校の文化祭のボンファイヤーだとか、会社主催のBBQだとかはこういう意味で今も行われる。

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さて、そろそろ本題に戻るとしよう。このように成立した「記号化された行動をする集団」はやがて、自分たちのグループと他人のグループを意識するための道しるべが必要する、という考え方がある。その一例として、古代ギリシャでは「ヘルマ」という、少し卑猥な感じのヘルメス神の立像が自分たちの領域の「境界線」に置かれるようになる。陰茎を以て旅人に対して「妄りにここへ入るなかれ」「ここには私を作ったものがいるぞ」と言ったような役割を持つといわれる。

さしずめ日本でいえば鳥居、またはしめ縄などが同じような役割を持ったものだろう。もっとも、こちらは「ここは神様の負わす場所」という文脈でとらえられることが多いのだが。ちなみに、ローマ時代になるとローマ時代の大帝アウグストゥスが領地内の至る道脇に自分の像を置いて「この地域は我が者である」という、専有欲丸出しの暴挙に出ているというが、上のヘルマに似て非なるところがあって個人的に面白いと思う。

このように(恒常的なものでは決してないにせよ)古代以来人間は自分たちの所有地、自分の集団と他人の集団の間に一線を引いてきた。そういう意味でいえばこれらは全部「差別」ということになるのだろうけれど、そもそも国境と国境(軽く国という言葉を使ってしまったが勿論これも要注意)がまだぶつかり合うことのない時代に害悪もそこまでないし、況してや差別を規制しようとする奇特な人も少数派だったのだろう。

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ところで、境界線にはもう一つの紹介したい側面があるのだけれど、これは言わば「物語的な境界」である。一番わかりやすい言葉でいえば「通過儀礼」であるけど、その言葉を使うことはあってもその意味を吟味することはなかなかないと思うので開設させていただこう。儀礼は英語でいえば「Ritual」にあたるが、これこそが「記号化された行動」を指す言葉である。現代日本における一番大事な通過儀礼は間違いなく「受験」「就職」「引退」である、と聞いたらどれぐらいの人間は驚くのだろうか?

通過儀礼」とは、個人の人生が、グループ内、または個人の意識の問題として、一つの役割を果たす人生段階から次のものへと進む境界線のことである。それは一般的な場合、戸惑いと混乱、あいまいな気持ちを引き起こす、辺獄(リンボ)のような状態である。広義でいえば「誕生」「死亡」もこの列に入るのであろうが、これらは個人としてなかなか意識できるものではないし、むしろ集団の中での通過儀礼の方だ。

この通過儀礼という概念に関して色んな学者が勿論いろんなことを言っている(この考察の大部分がLevi-Straussに由来すると思う)けれど、もう一つ言えば「記号化された行動」が物理的・身体的なものに関連するところは、勿論男の子、女の子が「大人」になることである。体の変化は皆同様に起こるけれど、文明ごとにどこに「子供」と「大人」の境界線を置くのかは結構変わってくるところだ。

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最後に一つ。上に述べたRitualという言葉だが、「記号化された行動」という学説的な意味とは別に勿論語源がある。「Ritu」というサンスクリットはある説でいえば「自然の摂理」または「季節の移り替わり」を指す言葉である。我々は古代より、月の満ち潮を見て、肌で季節が生まれ変わることを感じ取り、様々な「境界線」を超えてきた。その上に、私たちは概念としての境界線を重ね、ある意味自分たちにさらに集団行動を強いる結果を導いてしまったのではないだろうか。

人間のストレス解消をある意味目的としていたはずの集団行動が、そのストレスを増大させている人間社会の在り方をもう一度考えてみたいと思う。でも、それはかなり途方もないもので、なかなか答えが出てくるめども立たない。見るとしたら、せめて夏が終わった、月の輝く秋の夜がいいよね。

しかし、それはまた別のときの話。