万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

北海道の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

とりあえず北海道のことを書こう。というのは、この場合どこまで実際北海道である必要性があるのか、微妙なところである。それこそ恐らく旅の本質である。北海道に行って私が気づいたのは、旅自体が一つのツールであるということだ。数年前、もはや十年ぐらい前になるかもしれないが、「Eat, Pray, Love」という映画が流行ったことがある。個人的にこの映画を見ているわけではないけれど、この種の映画はもはや映画自体を超えて、一つのミームとして成立している。すなわち「自分探しの旅」である。へそ曲がりであまのじゃくな私だから正直ここまでストレートに書くことがあるとは思わなかったけれど、今回の北海道への旅は図らずしてこういうたびになった。

かといって、特に失恋したり、失業したり、失ったものを取り戻す旅だというわけではなかった。コロナのせいで精神が飢えていたこと以外、直接旅に出るように促したものは特にない。ただ、圧倒的にコンファートゾーンから出たいという気持ちは、おそらくずっと心の奥底で燻っていたんだろう。そしてそれがこれ以上ない濃い旅行の形で実現したということだ。

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北海道から帰ってくると、お土産はいくつかあった。富良野で買った梟の載ったロウソク。空港で買った十勝牛乳を使ったカタラーナ。知床の道の駅で買ったバニラ色の白熊のT-シャツ。アイヌの人たちに会いに行った証としての麻布の目印。そして、尺別という小さな村の廃駅近くの海で拾った、海と硫黄の臭いが残る妙な形の木片。そして、出会った人たちとの他愛もない会話の記憶という、土産話の数々。普段ここまでないが、思えば今回の旅行で多くの「土産物」を持ち帰ったようだ。

自分のコンフォートゾーンの外にしか、出会いはない。この事実に改めて気づかされた旅行だった。けど、出てみれば出会いはそこら中にある。宿で出会った、旅行中の札幌出身の三世代家族と会って、お爺さんとお婆さん、成人した娘二人と、一歳ちょっとの孫息子が思った以上に愛着がわいてしまい、遊んであげたのか遊ばれたかは分からない。存在するだけで可愛いのってこういうことって話になり、笑いながら「私も生きているだけで可愛いって言われたい」と笑いながら愚痴を垂らす若いお母さん。

知床を通る際に、もう一つの出会いが衝撃的であった。なんと、ヒグマの親子とも対面することになった。こちらもまたお母さんがしっかりしており、子熊二人がなかなか可愛くて、恐ろしいという気持ちが麻痺してしまったのか、ただその生態がどうなっているのだろうとか、クマの方に感情移入してしまう。

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こんな風に、今回の旅行は色んな側面から自分のとって新たな視点が開いたのだ。別に新しい知識を得たわけではなく、ただ自分がずっと外側でいた色んなものに対し、自分の中に押し込むことができたというか、実感できたのだ。知識は結局のところ行動の判断基準でしかなく、その行動自体に移せないなら知識を持っていてもしょうがない、ということを思い知らされた。けど、東京に戻ってみると自分は相変わらず自分で、自分の殻に引き籠る理由に事欠かないこの世の中において私はあっという間にいつものように一人でコツコツと読書する日々に戻った。

こんなにも濃い旅をした後、むしろどのようにして言葉にしたら伝えられるだろうか?むしろ、その旅の何が伝えたいのだろうか? 最初に言った通り、おそらく書きたいのは「北海道楽しかったー」などの上滑りな文章とかではなく、むしろ北海道というまだまだ未知の地域、そこに住む人々、出会えた景色と対峙して、私自身がどう感じ、自分の認識がどう変わったのか、旅を通じてそういう心象風景である。それはあくまでも私自身にしか価値の分からない文章になるかもしれない。

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だからこそ、我々は往々にして「自分探しの旅」をダサいと罵ってしまうのかもしれない。もちろん本当に表面的なことしかやっていないのに場合も含まれるだろうけれど、中々稀有な体験をした人でさえ、その経験自体のなにがすごいのか、自分はそれに対しどう思い、自分がどう変わったのか、言語化できないのが常である。それが何らかの形で将来における自分の行動に現れればいいが、それだけでは足りないと感じるからこそ、今私はこの文章を書いているのかもしれない。

北海道の話は、まだまだある。なので、今後も少しずつこれの続きを書いてみたい。それが今後の自分の文章を新しい段階に発展させていくのを切に願う。

しかし、それはまた別のときの話。