万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

トルコの話をしよう

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ひょんなことから、最近今までほとんどかかわりのなかった「トルコ」という国に興味を持つようになった。その直接な理由としては、ジラルデッリ=青木美由紀先生という学者が書いた、明治で建築家として活躍した伊東忠太の研究所である。

と、いう風に切り出したらもはや何が何だか分からない。なぜ日本人の伝記ものがトルコと関連してくるのだろう、と疑問に思うのも当然だ。むしろ、このジラルデッリ先生からしたら、さきにイスラム美術アリ、というのが実際のところのようだ。

伊東忠太なる人物は1900年ごろの東京大学の教授で、まさに「建築」という字を使って英語の「Architecture」という翻訳を提言した張本人である。このエリート教授が三年三ヶ月かけて世界を行脚し、しばらくイスタンブルに居住を置き、このころ「オスマン帝国」と呼ばれる現代のトルコ、エジプト、シリア、イスラエルイラクレバノンやヨルダン、ギリシャまでもを一国の内に治めていた。もっとも、伊東博士が訪土したころには、イギリスの力が強くなりつつあったのも事実のようだが…

この上で紹介した著作は実は私が高校で何ともなしに勉強してきた色んな歴史的な名所に触れていて、懐かしみながら読んできた。建築のけの字も知らない私だけど、ベル人でのペルガモム遺跡も見ているし、ギリシャの歴史の中でトルコの西海岸にある数々の「ギリシャ都市国家」も世界史のうちだ。その前に、有史以来の初期の文明として授業にチャタルフユックも出てくる。

 

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オスマン帝国は1923年のローザンヌ条約で崩壊し、現代のトルコ共和国が生まれる。今から約百年前である。オスマン帝国の解体にフランスとイギリスの帝国主義が浮き彫りになり、イスラエル周辺の国の紛争の大きな理由はこの時の条約で引かれた直線的で民族性を完全に無視した国境が問題となっている。現代ニュースになっているクルド人という無国籍民族がトルコ・シリア・イラクなど複数の国に見られるのもそのためだ。

一方チャタルフユックの遺跡は科学的調査によれば少なくとも紀元前7500年にすでに人が居住していたことが分かっている。古代国家の盛衰が激しい「肥沃な三日月」と呼ばれる地帯の周縁にあった現代トルコは、様々な文化が交わるところとなった。古代ギリシャ、セルチュック、ヒッタイトビザンチンオスマンなど、列挙したら枚挙にいとまがないほど色々ある。上記の1900年ごろのイスタンブールではフランス語が上流紳士の言葉で、トルコ語をはじめとする様々な言葉が飛び交っていたコスモポリタンな都市であったとジラルデッリ先生はいう。

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だったら、トルコというのはヨーロッパなのか?アジアなのか?地理、宗教、国境や文化が今よりもさらに不確かで流動的な時代に、それを決定づけることこそ間違いないのだろう。まず、残念なことに私はトルコを訪れたことがないのである。小学校の友達がトルコ人の母とオランダ人の父に生まれ、中学校になれば毎年トルコに旅行に行く彼は次第に酒や麻薬を利用するようになったりして完全に不良になりはて、トルコというのは漠然として「危ない場所」という認識が生まれた。

大学に入って、私は左翼大学よろしくエドワード・サイード先生の「オリエンタリズム」や「イスラム報道」を知ることになって、最初は自分がそこまで偏見を持っていないつもりだったけれど今になってもたまに私が持っていた印象が帝国主義の歴史のレンズに彩られたものだったと気づく。ジラルデッリ先生の本の構造としても、伊東博士が少しずつヨーロッパバンの歴史認識では説明しきれないほどトルコが重層的であることに気づき、歴史の再構築を行ったという。私も正直、「トルコ」を書くのはそのあとの方が無難な気がしてくるものだ。

つまり、トルコというのはそれだけ複雑で妙に絡み合った歴史を持っている国ということなのだ、と読んでみて実感した。そうしたら自分も行きたくなるものだが、一旦アジアに出てみると「まずは東南アジア」になり、そのすぐ後に「それよりまずは日常を」ということになって、こんな夜に本を読んで遠くの国、遠くの時間を思う羽目になる。

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最後に一つ面白いもの。トルコ、という印象が薄いかもしれないが地図上でいえば「トロイア戦争」の舞台となっているのもまさにイスタンブールからブルサに下って、ずっと西野海岸にあったと言われる。ドイツのシュリーマンという考古学者が調査し始めて遺跡や金貨を見つけたが、彼が見つけたのはトロイア戦争のそれではなく、それよりも古い遺跡であるというのが度々目にする話だ。それだけ重層的な街だということだ。

同様に、そこに生きている人々の歴史というのも重層的だ。国民性というやつが大変なのは、この重層的な文化を取捨選択し、自分の説に合わない証拠を「ほかの国から入ってきた文化」と片付けるからである。それはおそらくシュリーマンもそうだったのだろう。中々その複雑さを受け入れるのは難しいけれど、その努力はやはりするべきである。トルコという国の歴史をが、それを我々に話しかけている気がする。それは現代のトルコに対する警鐘とともに、オランダ、日本、中国や人類全体に対するものでもある。

しかし、それはまた別のときの話。