万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

持続性の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

そして、あけましておめでとうございます。今年も、読む人がいる前提で色々書かせていただきます。文章を発信することとは、それを誰かが読むということを考えなければならないが、私の場合はむしろ読まれて恥ずかしいより、誰にも読んでもらえなくて勝手に恥と感じる方が多いのだろう。

まぁ、御託はそれぐらいにして、今日は私の抱負の話をしようと思っている。2020年の新年早々、3日中二日も飲み屋街に繰り出しており、そのおかげかせいかといわずに、色んな感慨にふけっている。その中でもとりわけ大きいのが、去年から考えている「持続性」の話である。

f:id:yorozuyawakarando:20200104011005j:plain

昨今ではこの地球が何もしなければそろそろ終わるから「危機だー」と大声で騒いだり、道を防いだりする人がいよいよ多くなってきた。私は環境学舎ではないので、アカデミストとして論文が掲げる名大の解決とその方法論にケチをつけることはできても、今から自分の研究や調査などできやしない。その点でいえば、メディアとアカデミックな研究もそう変わるものではない。

今通っている大学では「SDGs」なるものが大層取り上げられており、うわさに聞く程度だがどうやらうちだけではない。SDGsは理想であり、それを現実にするのは各国の政府や自治体、企業というので大層都合のいい話ではあるが、まず掲げれば糾弾されることもない。ただ、いささかの岩化案を覚えざるうぇない。去年よくニュースに上った「吉本」もSDGs関連のプロジェクトにかかわっていたと聞けば、些か皮肉を含んだ言葉を発信してもしょうがないのだろう。

だから「危機だー」なのか、「危機なわけないだろう」というのは、私はメディアや論文を読み比べて判断するしかないのだ。ただ、それ以前に基本的な生き方として「危機意識」を持っている人々が掲げる「持続性」という理想には、結局共感してしまうのは自分の性なのだろう。

f:id:yorozuyawakarando:20200104011023j:plain

持続性はけっして環境だけの問題ではない。人生における「成功」の一つの目印であると私は思う。会社というのは存在するのが当たり前と思われているものだが、やはり我々現代人としては「いつなくなるか分からないもの」という二面性もある。広報論の教科書にも載っているようなことだけど、会社というのは存在するだけで、持続するだけで世の中に貢献をしているものだ。倒産しないことが人類の発展に貢献しなくても、人類の維持(意地?)には貢献していよう。

それを言えば「友情」も「愛情」そうである。どちらも「絶えない」から美しいと、我々は思う。友情が続くから「再開」がありえる。社会人が命綱とする「コネ」だって、時間的に持続していなければ作る意味もない。持続性とはつまり、未来への希望であり、明日があることを確信することである。

f:id:yorozuyawakarando:20200104011116j:plain

自分が自分であり続けるため、自分がより自分の理想に近づくため、持続性というのは必要な概念かもしれない。言ってみれば「精神の一貫性」だ。人の意識も毎日毎日成長してゆき、変わってゆくものなれど、そこに不変なるものを望むのもまた人間なり。西田幾多郎などは人間の意識の持続性を否定するようなことも述べているが、私は自分を弱くてバカな人間だと思っているので弱くてバカなままで持続性を冀い続ける所存である。

新年の抱負としては、この程度だ。報道やジャーナリズムとは程遠いけれど、今一度はこのブログにおいて自分の好きになったこの言語を用いて思う存分を語ったのである。

しかし、それもまた別のときの話。