万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

日光の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ

先日、日光に一泊しに行った時の話だ。王子の住まいから赤羽、栗橋を超えて、東武日光線で栃木県に初着陸。昼頃について、勿論まずは神橋を通り、東照宮を見てみたが、本命はここではない。唯一面白そうなのは17世紀にオランダから献上されたという言い伝えのある回転灯篭のようなもので、陽明門よりも私は唐門を見入った。

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それらを脇において、少し奥まで登って、有名なイギリス人女性のイサベル・ベルが日光の山々に入る前に泊まった金谷ホテルの前を通って、戦時中に天皇を匿った田母沢御用邸を見物した。途中から人影はなくなり、太陽が少しずつ暮れてゆく。館内の従業員だけが各所に立っており、写真OKと言われたにもかかわらずなんだか写真を撮ることを臆してしまう。
田母沢御用邸をあとにし、しばらく閑散とした住宅街を歩き、終いには立派な吊り橋にたどり着いた。太陽が川上から射してきて、なかなか神秘的な光景で、つい言葉に「すごい」と言ってしまう。橋ヲタクの時分には堪らない。帰り道の途中から山々の中に姿を消す。山間にある中禅寺湖から日光の町に流れる大谷川は時に激しくなり、吊り橋の脇にあったお堂も残っていなかった。

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川の向こう側にある憾満ヶ淵にあった慈雲寺も白いペンキで塗られたお堂しか残っておらず、明治時代にたくさんあった地蔵は、そのころに起こった大きな洪水以来、そ数はずいぶん少なくなったと聞く。正式な数が何度数えても定まらないから、ちょっとした都市伝説になっているということらしい。川沿いに中禅寺湖の上に聳え立つ男体山から放出された溶岩が今も残っており、まるでプラスチックでできたような塩梅だ。  

そんなところに、誰が住もうと思うのだろうか。まずでもって、日本は住むには適しない国というのはよく聞く。火山、地震、台風やらの天災が多く、山と海の間の僅かな平野でかろうじて農業を行う形だろう。日本が国として成立しようとしていた奈良時代に、日光の地を開山したのが、勝道上人という人らしい。

もちろん、それ以前にも人が住んでおり、火山や滝、湖などもそろっているので修験道の場としても有名だけれど、この時代に二荒山神社や滝尾神社が成立し、その周りに人が集う。もっと現代風にいえば、立派な開拓者である。 アメリカ風にいえば日光のピルグリム・ファーザーといったところだ。 

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これらの話を教えてくれたのが、日が暮れてから入った居酒屋の常連のおじいさん。今回の旅はとりあえず日光駅近くのゲストハウスで、Guest House Tora(その名も、主の名前のままらしいが)に泊まるだけを決めていたが、勿論一人旅の醍醐味である一人居酒屋も欠かせない。相談するまでもなく、トラさんは早速歩いて数分で夜遅くまでやっているところを教えてくれる。日光は、たいていの店が9時に締まるらしい。この時には温度も零度近くになってきていたので、それも頷ける。

驚いたことに、その居酒屋で一緒に飲むことになった方は地元の人でも何でもなく、数駅離れた池袋の住民だという。東京に住みながら日光愛好家として頭角を現しており、店の店主にも一目を置かれているようだった。酒席を共にした者同士、自然に打ち解けつまみながら焼酎のロック割を飲む。地元かどうかわからないけれど、山芋の紫蘇揚げ、とろろをご飯にかけたどんぶり、あん肝などをいただく。店の看板メニューがどうやら花結だが、材料も味も残念ながら記憶から消えてしまった。  

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隣のおじいさんは交流が広く、勝道上人の話の傍らにわが大学を卒業し、仕事の合間に修験僧をしている話や、千日山の中を走り、千日修行なるものを見事にコンプリートした修験僧の話もしてくれた。山の中を走るなら托鉢というわけにもいくまい。第一調べたら日本では明治以降托鉢の類は禁止されている。空気を飲んで雲を食べるのも仙人じみているし、これは現に生きた人間のしたことだから、居酒屋の席で私が結局最後まで答えられなかったのは「彼はいつ、なにをたべるのだろう」という疑問だった。

残念ながらその答えはまだ得ていないが、彼との交流でまたいっそう日本で生活するうえでのヒントを得た気はする。フェースブックで居酒屋遍歴を投稿しているようで、今後も登録させてもらうことにした。ちなみに、この日は修験僧の友達を途中で呼び出してくれ、夜中の2時までやっているボードゲームカフェーに凝っているバーにも紹介してもらったが、修験僧は東京で打ち上げをしていたらしく、結局会わずじまいだ。

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次の日起きたら意外と二日酔いもなく、さっぱりした気分で朝食をいただく。両脇にはオーストラリアとアメリカから来た女性観光客、後ろのバーには店主のトラさん、奥のテーブルに日本人のおばさんが数人。久しぶりに知らない人と英語で会話し、日光のスポットを話すうちに、一人の女性から「昨日もう行ったので、よかったらどうぞ」と2100円もするバスのフリー切符をいただく。これだからゲストハウスはよい。まず、来る人が易しく、寛容である。

そんなわけで、いろは坂を登って華厳の滝中禅寺湖へ。京大で覚えたはずのいろは歌だけど、「わが」までが限界だった。12月初旬もあって、滝の土産屋もしまったものも多く、中禅寺湖のほとりを歩いて中禅寺の方に足をむけると人気が一気になくなる。むしろ廃墟っぽいビルが目立ち、一年の数ヶ月は全く活気がないのだろう。鳥居のある交差点に某大手ホテルチェーンの新事業の工事があって、対照的でおかしくなる。

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上の中禅寺(というより、日光を知ったきっかけ)が今回も例の京極先生である。京極同シリーズの主人公の実名が中禅寺明彦なので、思い入れ伸ばしなのだろう。そういえばいまだにでない「京極堂シリーズ」の新作も奥日光を舞台にしていたな、と思って訪れた中禅寺である。

ただ、古い割には僧たちは皆弁が立っており、商魂たくましい方々で驚く。博物館のように入場料金を払い、タイミング的にちょうどご高齢な方のグループに混ざって、打ち出の小づちや、色が変わる不動明王のお守り(黄色が一番レアだから頑張ってゲットしよう!の解説付き)などを押し付けられる。お寺も資本主義だなーとぼんやり思う。

帰る前に、居酒屋の方に教えてもらった東照宮の奥の方の滝尾神社も訪れたが、石畳を歩くと視線が下にいくばかりで、電車に戻って本を開く。やっぱり長距離の電車は読書がはかどる、と思うともう東京の明かりが見える。そして、新しい週が始まる。新年まであと三週間余りで、今年何を成し遂げたのだろう、と不安になる時期になってきた。

しかし、それもまた別のときの話。

トルコの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

ひょんなことから、最近今までほとんどかかわりのなかった「トルコ」という国に興味を持つようになった。その直接な理由としては、ジラルデッリ=青木美由紀先生という学者が書いた、明治で建築家として活躍した伊東忠太の研究所である。

と、いう風に切り出したらもはや何が何だか分からない。なぜ日本人の伝記ものがトルコと関連してくるのだろう、と疑問に思うのも当然だ。むしろ、このジラルデッリ先生からしたら、さきにイスラム美術アリ、というのが実際のところのようだ。

伊東忠太なる人物は1900年ごろの東京大学の教授で、まさに「建築」という字を使って英語の「Architecture」という翻訳を提言した張本人である。このエリート教授が三年三ヶ月かけて世界を行脚し、しばらくイスタンブルに居住を置き、このころ「オスマン帝国」と呼ばれる現代のトルコ、エジプト、シリア、イスラエルイラクレバノンやヨルダン、ギリシャまでもを一国の内に治めていた。もっとも、伊東博士が訪土したころには、イギリスの力が強くなりつつあったのも事実のようだが…

この上で紹介した著作は実は私が高校で何ともなしに勉強してきた色んな歴史的な名所に触れていて、懐かしみながら読んできた。建築のけの字も知らない私だけど、ベル人でのペルガモム遺跡も見ているし、ギリシャの歴史の中でトルコの西海岸にある数々の「ギリシャ都市国家」も世界史のうちだ。その前に、有史以来の初期の文明として授業にチャタルフユックも出てくる。

 

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オスマン帝国は1923年のローザンヌ条約で崩壊し、現代のトルコ共和国が生まれる。今から約百年前である。オスマン帝国の解体にフランスとイギリスの帝国主義が浮き彫りになり、イスラエル周辺の国の紛争の大きな理由はこの時の条約で引かれた直線的で民族性を完全に無視した国境が問題となっている。現代ニュースになっているクルド人という無国籍民族がトルコ・シリア・イラクなど複数の国に見られるのもそのためだ。

一方チャタルフユックの遺跡は科学的調査によれば少なくとも紀元前7500年にすでに人が居住していたことが分かっている。古代国家の盛衰が激しい「肥沃な三日月」と呼ばれる地帯の周縁にあった現代トルコは、様々な文化が交わるところとなった。古代ギリシャ、セルチュック、ヒッタイトビザンチンオスマンなど、列挙したら枚挙にいとまがないほど色々ある。上記の1900年ごろのイスタンブールではフランス語が上流紳士の言葉で、トルコ語をはじめとする様々な言葉が飛び交っていたコスモポリタンな都市であったとジラルデッリ先生はいう。

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だったら、トルコというのはヨーロッパなのか?アジアなのか?地理、宗教、国境や文化が今よりもさらに不確かで流動的な時代に、それを決定づけることこそ間違いないのだろう。まず、残念なことに私はトルコを訪れたことがないのである。小学校の友達がトルコ人の母とオランダ人の父に生まれ、中学校になれば毎年トルコに旅行に行く彼は次第に酒や麻薬を利用するようになったりして完全に不良になりはて、トルコというのは漠然として「危ない場所」という認識が生まれた。

大学に入って、私は左翼大学よろしくエドワード・サイード先生の「オリエンタリズム」や「イスラム報道」を知ることになって、最初は自分がそこまで偏見を持っていないつもりだったけれど今になってもたまに私が持っていた印象が帝国主義の歴史のレンズに彩られたものだったと気づく。ジラルデッリ先生の本の構造としても、伊東博士が少しずつヨーロッパバンの歴史認識では説明しきれないほどトルコが重層的であることに気づき、歴史の再構築を行ったという。私も正直、「トルコ」を書くのはそのあとの方が無難な気がしてくるものだ。

つまり、トルコというのはそれだけ複雑で妙に絡み合った歴史を持っている国ということなのだ、と読んでみて実感した。そうしたら自分も行きたくなるものだが、一旦アジアに出てみると「まずは東南アジア」になり、そのすぐ後に「それよりまずは日常を」ということになって、こんな夜に本を読んで遠くの国、遠くの時間を思う羽目になる。

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最後に一つ面白いもの。トルコ、という印象が薄いかもしれないが地図上でいえば「トロイア戦争」の舞台となっているのもまさにイスタンブールからブルサに下って、ずっと西野海岸にあったと言われる。ドイツのシュリーマンという考古学者が調査し始めて遺跡や金貨を見つけたが、彼が見つけたのはトロイア戦争のそれではなく、それよりも古い遺跡であるというのが度々目にする話だ。それだけ重層的な街だということだ。

同様に、そこに生きている人々の歴史というのも重層的だ。国民性というやつが大変なのは、この重層的な文化を取捨選択し、自分の説に合わない証拠を「ほかの国から入ってきた文化」と片付けるからである。それはおそらくシュリーマンもそうだったのだろう。中々その複雑さを受け入れるのは難しいけれど、その努力はやはりするべきである。トルコという国の歴史をが、それを我々に話しかけている気がする。それは現代のトルコに対する警鐘とともに、オランダ、日本、中国や人類全体に対するものでもある。

しかし、それはまた別のときの話。

他人事の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

日本に来てはや七ヶ月、今日授業で「これはおそらくあなたたちにとって他人事だけど」と断りを入れてから話を進める教授を聞いたら、ふとこの「他人事」という言葉に耳を傾け、そしたら授業の内容よりもずっとこっちの方が気になりだして授業をほったらかして施行にふけっていた。

人間、しょせん起こることがほとんど「他人事」ではないだろうか?一旦そう考えてみれば、我々が毎日起きてやっていることが意味が分からなくなってくる。特にメディアを研究している私にとって、言葉にしてみれば各メディアが毎日血と汗と涙を結晶させて作っているニュースのあれこれは、まさに去年の私にとっても「他人事」であったはずなのに、気が付けばニュースを読む習慣が身に付き、その解説をする教授たちに耳を傾けている。

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そんな時に私の手元に会った本が知る人も多いだろう、ハラリ先生の「ホモ・デウス」であった。彼の本のいいところは、極めて単純明快な命題に対して、多角的な解説を加えながらFood for Thought(思考の糧)を提供していることだ。今回はずばり「飢饉、病気、戦争の三つの死の要因を前提としない人間が次に取るだろう行為は、いったい何なのだろう」ということだ。命題だけでこれだけ面白いのは嫉妬してしまうほどだ。

確かに、我々は毎日を生きて、飢饉も病気も戦争も「異物」として見て生きている。台風19号の時、コンビニエンス・ストアからパンやらカップ麺やらが消えた時、人々は「ご飯がないのは仕方ない」などという態度を取らない。むしろ「なんで食べ物がないの!責任者はどこだ?」という風に憤った人の方が多いだろう。病気もいくら自然なものとはいえ「なぜ私なのだ」というだろう。戦争に至っては真っ先に政府を責めるか、自分から進んで参加していくのだろう。

メディアというものが元々持っていた一つの役割というのは、人間が一人一人こういう死活問題に対する対抗手段を与えることだった。医学書を読んで勉強すれば病気になったときはそれを直せるかもしれない。新聞に隣町に敵が攻め入ったと読めば今すぐ自分のいるところから逃げていくだろう。自分が目にするメディアのほとんどが「身近」なものに対するものだったはずだ。メディアの届く範囲も限られているが、人間の生活範囲も狭いのでそれはそれで間に合っていた。

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人間の行動がここじゃない場所、今じゃない時間を前提として行われるようになったのは、いつなのだろう。換言すれば、「趣味」の誕生とは、いつだろうか。ハラリの言う通り、21世紀までの人類の歴史の中、朝起きてまず考えるのは「今日何をしよう」などではなく「今日どうすれば生き延びることができるか」ということだ。そのためにご飯を食べ、水を飲み、仕事をしてしばらく生きていけるための金を得る。もっと前でいえばそもそも毎日ご飯が食べることもできず、それを作ることが人生の大半を占めていた。

1899年にヴェブレンという人が書いた「有閑階級の理論」という本が出版されている。この有閑階級はつまり、一般人と比べ経済的・権力的な要因から、自分の生存維持のための行動を行わなくて済む人たちのことである。当然、メディアを「身近な問題に対抗するための手段」ではなく、「趣味」や「暇つぶし」のために典籍を繙き、詩を書いたり、行くこともないのに遠くの国の話を読んだりするのも彼らであった。平安の貴族も、中世ヨーロッパの宮廷の王様も然り。

ただ、おそらくヴェブレンの時代にだってすでに中産階級の中にも「暇」のある人々はいた。そもそも小説という代物は生存維持のために何らかの役に立つものでもないから、この話題は私にとってだって他人事ではない。いつしか人類(というのも、欧米をはじめとする先進国)は一億人有閑階級とまでは言えないが、一人の人間の毎日に「余裕」があることを前提にし、人の生涯を考えるようになった。

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別の観点から見れば、一旦「生き延びる」ための物理的な障壁を覗くことでようやく「精神的健康の維持」に目を向けるようになった。国という制度も同じように、元々は人々が集まって生き延びるための集まるであったにもかかわらず、今でいえば「いい政府」は人命を守り保障するだけではなく、人権にまで責任を持たされるようになった。

三国時代、中国で起こった黄巾の乱の主な原因は、中央政府が人々の食料を担保できなかったことだが、今現在香港で起こっているでもはそんな問題などとっくの昔に解決したと言わんばかりに「民主主義の担保」を理由に起こっている。それもそのはずだ。千年前、二千年前に一人の人間が動く範囲はとてつもなく狭く、今の人から見ればその人の人生はさぞや「退屈」に映ったのだろう。

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今我々は起きてテレビを見てツイッターで誰それが結婚した、別の人が麻薬をやったなどの芸能ニュースを見たりする。世界半分ぐらい離れたアルジェリアやナイジェリアでデモが起こって、何人か亡くなったことを知る。関心のあることは、いいことが起こればわが物のように喜び、悪いことが起きれば義憤に燃える。それはつまり、他人事ではないということなのではないだろうか。

人が死ぬとき、その死事態を我々はいつしか「人類に対する犯罪」のようにとらえることになったとハラリ先生は伝える。なるほどそうだね。死が異物であるのなら、誰かが死んだことを防げたという前提があるならば、防げなかったことには理由がある。責任者がいる。仕事を怠った人がいる。

十分にご飯が食べることを手に入れた人間は、次に何を求めるのか。それは精神の充足だ。来世紀、いや、今世紀、今にも「私が不幸なのは、あなたのせいだ」といわんばかりに真面目な顔をして人類に言葉を投げかけるだろう。それとも、それは既に何千人の人が、歴史の片隅で嘆いて呟いた言葉なのかもしれない。

そんなことを考えている私も有閑階級なのだろう。だからこそ、他人事でも関心を持つことができるわけだ。対岸の火事とよく言うけれど、こちら側も燃えていればただの火事だ。自分の方が平気だと思うからこそ、他人に手を差し伸べることができる。ならば、やはり先にかじを鎮圧できた方から助けていくべきなのだろう。

しかし、それはまた別のときの話。

ドキュメンタリーの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

4月に日本に来てから、今までの勉強してきた「日本」や「書籍史」などから少し趣向を変えて、「メディア」という分野を勉強してきた。研究分野として違う要素は色々あるが、あえて一つ上げるとしたらそれはメディアには「業界」が付いているということだ。日本を研究する人たちも、書籍史を研究する人たちはもちろんそれなりにいて、シンポジウムや発表会など、公の場で発表することも多いけれど、その研究内容が一般向けであるとはいいがたいもので、循環の幅が狭いというのだろうか、内輪で終わることが多いのだ。

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その点でいえば、メディア業界は自分が去年まで思っていたほどよりずっと開けたところだったと、最近思い始めている。それにももちろん限界はあるけれど、放送メディアに関して言えばよるよいもの、より良い作品を世に出そうという活動は様々な方面から行われていると、思い知らされるようになった。

今回は(仕事内容は本当に裏方ばかりだが)TokyoDocsというNPO法人が行う、Colours of Asiaと銘打って、四日間かけて行われるイベントでスタッフとして参加させていただき、現場を見学させていただく機会を得た。ということをいえばいかにも大学に提出する感想文のようであれだけれど、自分が思うよりもこのイベントから得ることがあったので、ここで一つ文章にしたいと思った。

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まず少し、このイベントの趣旨を伝えよう。このイベントに集うのは日本をはじめとするアジアの映画監督、プロデューサー、ディレクター、映像制作会社など放送メディアの有識者である。大きく分けて、新しいプロジェクトを引き受け、経済的支援をする側と、ドキュメンタリーの企画を持ってきて買い手を探す監督がいて、このイベントがそれぞれが出会える場になっている。競売会場というか、婚活会場というか、普段会うきっかけはないけど、あったら面白いんじゃない、という人たちをくっつける場なのである。

ここで無事マッチングされて、作品化が決まった企画は、その翌年NHKのドキュメンタリー枠で放送されることになる。実際、今夜上映会が行われた去年の作品は先月無事NHKでデビューを果たしている。今年はベトナム、インド、フィリピン、インドネシアの四か国で、夢を抱く子供たちのモノガタリが描かれて、今日は勤務後に残ってそれらの作品を見る機会を得たわけだ。

個人的な感想だが、ドキュメンタリーの特色として、一番リアリティーを与えているのは、「雑音」なんじゃないかと思う。映像作品には何を映し、何を移さないかという作為性はつきもので、アニメともなればどんな音も必ずと言っていいほど人間の意図が反映されてこそ組み込まれることになる。ドラマや映画、リアリティー番組だって、セットを作ったりして、本来そこにある生活音が遮断されることが多いのだ。

ただ、ドキュメンタリーにはそういう余裕は、往々にしてないに等しい。本物の人間の映像を取っているわけだから、業界用語でいえば「アクセス」という重要な概念とどう向き合うのかが勝負になってくる。どのように被写体と接触を図り、彼ら彼女らと信頼関係を気づき、維持するのかという過程の中で一回しか取れないショットが必ず出てくる。そういう状況で、雑音のような、直接話の筋に影響のないものにまで気を回すことはなかなかできないと、素人ながら感想を抱いたわけだ。

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だからこそ、これらのドキュメンタリーにはほかの映像作品にはない魅力を見出すことはできた。小説やラジオなどは、そもそも「真実性」というのは成立しにくい概念なんだから問題にされないことも多いが、テレビ制作の場合はヤラセや捏造番組の蔓延る中、「真実性」は第一前提になる。

ドキュメンタリーという手法は、普段知られることの少ない「現実」を伝えることにとても適しているように思う。その題材の選択にはもちろん作為性はあるが、その枠内では嘘をつくことはとても難しいことだ。場合によっては数年かけて制作されるドキュメンタリーの場合、雑音の魅力と、「アクセス」という形で被写体との良好な環境づくりなど、物語そのもの以上に製作上の努力を知ってこそ輝くところもあり、自分もこれから見る場合はそういう目で作者や制作環境を合わせて「ドキュメンタリー鑑賞」を極める第一歩を踏み込んだ気に、勝手になっているところだ。

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最後に一つ付け加えると、上のように言ったように、このドキュメンタリーという世界は広いようで狭いのだ。今回お世話になった運営側のATPの方も、できたら若手の映画監督や法曹関係者がもっと気軽に出会える環境づくりをこれからもしたいと夢を語っていただいて、かなり感銘を受けたのだ。海外からいろんな方が集まる機会は未だに稀少で、普段は彼らはそれぞれ別々の世界で生活していて制作している。業界が発展するには改善できるところも多いが、それに向き合っていく投資を持っている人の存在をしって外野から見届けたいと思う次第だ。

次のステップはしかし、これらのドキュメンタリーを見る側である。ドキュメンタリーというジャンルの魅力を伝えたり、知らない人たちがそれに気づくためにどうしたらよいのか、それを目的としている組織がどういう活動を行っているのか、出版をメインとしている私からして浮気しているようで踏み込んでいくことも場違いかもしれないが、逆に自分の分野でこういうイベントもあるのか、出版だったらこういうスタイルはそもそも成立するだろうか、示唆に富んだイベントでもある。

作品の制作過程は、映像であれ文章であれ、イベントであれ芸術作品であれ、いつも様々な人たちが繋がっていることでようやく成り立つものである。普段は違う分野で働いているけれど、その輪の中に入っていれば各人の作業は、いつも他のだれかの作業に、そして最終的な作品に何かの形で爪痕を残す。だからこそ、そのつながりを深め、深めるための機会を作り、輪内の人間同士の関係をより良いものにする作業は、とても意義のある作業だ、と抽象的な教訓を得て、今後の生活に役立てていこうと思った。ややまじめくさったいいかたではあるけれど。

しかし、それはまた別のときの話。

個人史の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

いよいよ、再来週はこの名前で以て高座に上がるということになった。いや、正確にいえば「ステージ」なんだろうな。それでもたぶん当時になれば、私はその場を「高座」にしようとするのだろう。場所の名所など、多数派の認知でしかないのだから、私の演技がうまければうまいほど、そこは「高座」になるのだろう。

と、いうのは噺のマクラの様なものとして、今日はここ最近平野敬一郎先生の「マチネの後に」を受けての内省の旅を振り返ろうと思って書くことにする。特に「未来を決めていくことで、過去は塗り替えられる」というテーマに関して、考えてみれば色々考える点があったので、この際だから自分の考えを整理するという意味でも文字で起こしたいと思った。

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生きていく上で、私たちは人にであい、旅に出て、モノを見る。それらにはもともと意味などないはずなのに、旅が終わってみるとやっぱりなにかの愛着がわいたり、苦い思い出になったり、ともかく一度かかわったものには無関心でいられる方が難しい。それをきちんと「自分という主人公のモノガタリ」の中に織り込もうとして、さも必然なことのように振舞おうとする。

とくに就活などの場では人生にブランクがあったら白い目で見られるのもそういうことだろう。最近始めたアルバイトでワーキングホリデーの外国籍の人がハローワークに行くときの通訳など請け負っていて、わりと容赦なく「この期間って、どうされてました?」という質問を投げかけられて、これをどう調整していくのかがなかなか大変だ。

こんな風に、我々は今までがやってきたことが全部有意義で、点と点をつないでいく過程でよりよい未来が待っていると思ってたぶん誰もが生活している。けれど、それって実際どれほど現実的な話だろうか。ヒッチコックの格言の通り「ドラマとは、つまらないものがあらかじめ切り取ってある人生だ」というのがあるのだけど、まさにこういうことだと思う。映画を面白いと思うのは、いいとこどりをしているからだ。

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そんなことを思ってたら、自分の今の生活が少しぐらいつまらないのは、むしろ当たり前のことのように思えた。劇的な変化に期待しない。そもそも少しだけ裕福と言っても普通の家に生まれ、背伸びして何とか日本で生活しているようなものだから、身分不相応な人生を期待するのも、という気もする。

今でも私は夢を捨ててはいない。いいと思った小説を、私は日本からオランダへ紹介したい。オランダの文壇を研究し、その逆をするのもアリとは思う。けど、その前には気づくべき事実がいくつもある。踏むべきステップがある。経験すべき挫折も絶望もあるし、未来が見えなくなることもあるはずだ。そして、自分が思う以上にそういう日々は無為に続くかもしれない。考えるのが苦手な私は、たまさかな閃きに期待する部分も少しはある。

大学というところは、個人史と人類史、そのどちらも突き付けられる格好の場である。子どもではない、しかし社会人でもない。知識とコネはまだまだ不足しているけれど、時間はたっぷりある。といっても、大学院に入るまではあと半年を切っている。その間、なのを読んで、誰と話しをするのか、それは個人史である。けれど、こういう選択肢を、ヒトラーもしている。ガンジーもしている。彼らも人間の命の裏側にある圧倒的なアンヌイと葛藤し、ああなったのである。今ではそれは世界史で習う内容なのだ。

だったら、当時の彼らと、今の自分を隔てる境界線とは、いったいどんなものだろうか?そんなものは、最初からないのだろうか? 彼らには、先見の明があった、というしかないのだろうか? それもそうかもしれない。けど、当時の彼らはそんなことに気づいていなかった。彼らだって、自分の個人史を、途中から最初からこうあるべきだと、自分で塗り替えているはずだ。

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私には政治的な意見は皆無とは言えないが、高校ではともかく「懐疑的であれ」と教えられてきた。それはそれで、残酷な教えだ、と今になって思うことがある。大学に入って、私はいわゆる左派の先生に多くあって、特に日本には「歴史修正主義者」が多くいると言われている。慰安婦問題など、甲論乙駁なのは確かだ。

けれど、「歴史修正」と言われたら、なんとはなしに「もともと正しい歴史を隠蔽されてしまった」という文脈で語られることが多いから、結局それさえも懐疑的に見てしまう私なのだ。個人史を自分で自己修正し、その上で有名になってしまったら外から見ているだけの赤の他人までもに修正されているのじゃ、たまったもんじゃないだろうなぁーって私なんかは思うんだが…

最後に、一つ逸話を。今日届いた個人史的なニュースでいえば、中高6年間、私に週二歴史の授業を受けていた先生が、どうやらいよいよ引退したようである。ほぼ40年間の間、彼は懸命に高校生相手に歴史の必要性、我々が今立っている位置からしか歴史を観察することができないということを、私が12歳のころから教えてきた。それこそ、私が生きてきた人生のほとんど半分を、彼はそのことを伝え続けている。

その意義を、今の私ならわかる気がする。個人史の中の一点にはなっている。それがその時分からなくとも、あとから意味を持つことはいくらでもある。むしろ、後から意味を持つ方が、人間は大切にしてしまうのだろう。人間には、過去の出来事を過大評価する仕組みが、予め備え付けてあるものかもしれないね。ともかく、今の私にはオランダの記憶が愛おしくて、高校の友達に声かけてしまうのだ。

しかし、それもまた別のときの話である。

 

生きたメディアの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

言葉は不思議なもので、文章を書くことを趣味に持った場合でも、時と場合によっては色んな環境的要素のせいで全然使わない言葉がある。また、環境が変わったせいで言葉を使わなくなったり、むしろ昔使ってた言葉を再び自分のレパートリーに再導入することもあろう。言葉遣いのは時間的なムラがあるといえばそれまでだけど、これが結構自分に対する視線、また他人が自分に対して向ける視線を変化させてしまう場合がある。

それで、というのはあまりにも脈絡ないけれど、今日久しぶり(と言っても一か月ぐらい)に最近仲のいい友人に会ったら、会話の流れに沿うつもりで発した言葉が「人間はメディアである」という言葉だ。今言い換えると、「人間は生きたメディアである」の方がしっくりくるのでそれで行こう。

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人間の会話は、コミュニケーションは、かなり複雑で巧緻なものである。逆に会話から確信できるほどの情報を見極めようとしても一歩間違えばそれを元にした行動が大きなすれ違いを起こしてしまう。人間の生の声というメディアは、歴史的にいえばものすごい説得力を持つことは知られている。昔のアテネの哲学者からカリスマ性で独裁者までのし上がったヒトラーなどが、そのよい例と言えるのだろう。

むしろ、ほとんどの「マス・メディア」と呼ばれるものは、考えを頭の中で形成してゆき、しだいに固まってゆき「声」という形として出てくるものを、さらに加工したり、何らかの方法で付加価値を付して作られるものだと言えるだろう。このカテゴリーに当てはまらないものは非言語的コミュニケーションであり、広く言えばその人間に付属する様々なものとその変化に意味を見出すものだ。

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「メディア」が「マス」になることに対して最も大きく立ちはだかる壁は、つまり時間と空間である。ラジオやテレビが開発される前までは、時間を克服するためにはエジソンの蓄音機でできたし、空間に関しては有線電信で大きな一歩を踏み込んだわけだが、その前を辿れば辿るほど原始的な拡声器に行きつき、空間を乗り越えるために発明された最初のは何かといえばつまり「文字」ということになる。

このように、メディアにはメディアなりの系譜があり、技術もその技術を使う人々の水準とそれを使う方法が逐次発展していったのだ。それでも、古いメディアが決して廃れることなく、今も健在である。むしろ、我々が毎日情報を得ているのは自分らの属する準拠集団であって、歩く街の風景にある。

人間が歩くことだけで、常に変化し続けることでその他の他人に情報を発信していて、またそれらの人間を大局的に見れば街の風景、そこにある店と同等以上に街の色を作る。我々がシロガニーズなどと言いふらすのは、彼ら彼女ら白金を歩く人、利用する人を一つの集団としてみなしてそのイメージを街の名前という記号に置き換えて連想しているに他ならない。

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このような文明史的、社会学的なメディアの見方の大家として知られるのが、大学の名にちなんで総じてトロント学派と呼ばれるマクルーハン、オング、イニスなどである。上のメディアを空間、時間を克服するものと定義づける考え方は、大きくいえばイニスの論によることを記しておこう。

メディアとはつまり、空間と時間という束縛を克服するための媒体、またはツール、と定義づけることができる。そのため、人間なら赤ちゃんでも生まれもって利用できるのは、せいぜい鳴き声と四肢、顔の筋肉を動かすことぐらいのものだ。その延長線上に広義での言語があり、それをまた文字と発声に分けることができる。朗読という概念は文字を一段上に置いてしまうけれど、もちろん言語は発声より生まれてきた。

そして声よりも先に、人間は「動くこと」にメッセージ性を見出すことを誰からともなく決めた。人間が常日頃変わっていくことは彼らが無意識に発している叫びである。それは極めて不確実ですれ違いの可能性が高いものだから、多くの場合は無意識に送り、無意識のうちに脳によって処理されるが、人が意図して「変化」することは、つまり人類初のメディアなのだ。

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ただ、このメディアの使い方は忘れられつつあるし、伝承しにくいから、やがてもっと効率のいいものに加工され、増幅される運命にある。なにせ言葉が全部意図したもののに対して、人間の変化においてどれが意図したものかは、外からはわかりっこない。たとえば今日会った知り合いが髪を切っていたとしても、それが誰にどのようなメッセージを送っているのか、それとも発信するつもりすらないのか、それだけでは分からない。

そういう意味では、メディア史はこの原始的な発信の改良の歴史であろう。果たして、私はこれを書いてどのようなメッセージをあなたに贈ろうとしているのか、それをあなたはどう受け取るのか、それすらを意識せずに書く文章は、果たしてメディアになりうるのだろうか?そんなことを思いながら書き続ける私である。

しかし、それはまた別のときの話。

旧交の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

発信を目的としたこのブログも、読み手が少ないにせよ、一か月も投稿なしというのではさすがに淋しいことである、と今心に浮かべながら久しぶりに文章を書く。思えばこの夏、文章も書かず写真もほとんどとらず、ただ徒に院試という大きな壁を乗り越えるための材料をいろんなところから引っ張り出そうとして、大してすごい発見もなく今年も秋が来たわけだ。こんな淋しいことはあろうか。されど、それも私の人生だろう。

大学の試験が終わっても、人生はいつも次が控えている。真面目に将来と向き合って積極的にキャリアープランを描いているとは到底言いづらいけど、それでもある程度はやるべきことをやって、9月も暮れになるとアルバイトが三個、新学期も到来し、久しぶりに旧友と会ったり新しい出会いもそこそこに、という感じである。

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わが校のシンボル、ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルト

そういえば、今日文章を書こうと思ったのには割と立派な理由があったのだった。そう、同じ高校の女の子(早生まれで年は一個違うので22歳であるが)がオランダではそれなりに知られている政治を議論するテレビ番組に出演していることをFacebook通じて知り、驚愕した。そもそも、彼女の名前を最後に想起したのはいつなのかすらわからない。高校を卒業して以来、はたしてあるのだろうか、と、首をかしげることになった。

その女性とは、大して親しくはない。一緒のクラスになったはないし、二人で話すことなどほとんどないはずだ。割と高校生にしては大人びたルックスと性格で、なんとなく冷たい印象があって、中学校までまぁまぁねぐらだった私からしてわざわざ話そうと思うこともなかった。ただ、美術の授業が一緒で顔を合わせることはそれなりにあって、その時仲良くしていたもう一人の女の子と仲がいいと、そんな友達とも知り合いともつかぬ曖昧な関係性。

そう考えると、高校生の時分の知り合いって、そういう人が非常に多いのだろうってことに気づく。小さめな学年なら全員の名前と顔を憶えていてもおかしくはないし、オランダは6年制で中高一貫、選択授業とかもあるから大体の人とは一回ぐらいは一緒のクラスになることがある。その点でいえば典型的な日本の学校とは全く違くて、縦のつながりよりも横のつながりが強く、クラス横断して仲良しグループができやすい。

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彼女の名前をちらっと見て、そのテレビ番組との組み合わせにはまず驚いた。その年でそういう番組出れるものだな、と思ったら、彼女の父親はオランダでは元大学教授で、それなりに名前の通ったフリーのジャーナリストということを思い出した。多分、その父親とも一遍は誕生日会か何かで顔は合わせていると思う。そのコネで、という胆略的な考えはあまりにもひどいけれど、それにしても大抜擢である。

今ではその女性はウォースタディーズという、戦争、紛争地域、軍隊、核兵器競争とかのキーワードが並ぶ論文を出しているようで、同期としてなかなか強いプレッシャーを感じることになった。私はと言えば日本にわたって相変わらず器用貧乏を極めているものだから、恐ろしいほどだ。

それにたいして、他の当時のクラスメートは、今どうしているのだろう。あの時の友達と未だにまめに連絡を取っている人は、正直一人もいない。器の小ささの表れとも取れるけど、日本にいったん精神の大部分をささげてしまった私は、いつのまにか母国と一線を画してしまって、自分がそこで築き上げたものや作った友達をも「過去のもの」にしてしまっている。黒歴史では決してないが、今の自分の日常にその頃の何かが影響を及ぼしてくることはまずないと、どこかで思った。

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今はなき、わが校の跡

そしたら、ほらどっこい、いきなり現れたのがその人だ。当時大して親しくもない相手にここまで精神的に追い込まれるとは、私もまだまだ弱い人間だ。ただ、あの頃のあの人は今どうしているのだろう、というあまりにも陳腐な考えを、いつの間にか楽しむことができるようになっていた。これはやっぱりよい兆候なのではないかな?

中学校、高校の頃はそりが合わない人、憧れる人、なんとなく仲良かった人と、そういう他人とも知り合いともつかぬ人々と一緒に6年間一緒に日常を過ごした。その純然たる事実がまるで稲光のように今晩落ちてきた。そして、たまには「将来、この人はどうなるのだろう? そして、私自身将来何をするのだろう」と思ったりもしたはず。

でも、今は敢えてこう言いよう。将来とは、今だ。あの時のあの人はまさに今週テレビに出ている。妹はスェーデンの院に行って、あの時のクラスメイトと同じような研究をしている。

私も今現に日本まで来て、あわよくば日本で出版業界の研究というのを4月からやることになっている。Mindfullnessというのが一時期はやってた(いや、今も流行っているかもしれないけれど)それはつまりこういうことなんだろうなぁー、と妙なところに感心してしまう。

しかし、それはまた別のときの話。