万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

生きたメディアの話をしよう

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言葉は不思議なもので、文章を書くことを趣味に持った場合でも、時と場合によっては色んな環境的要素のせいで全然使わない言葉がある。また、環境が変わったせいで言葉を使わなくなったり、むしろ昔使ってた言葉を再び自分のレパートリーに再導入することもあろう。言葉遣いのは時間的なムラがあるといえばそれまでだけど、これが結構自分に対する視線、また他人が自分に対して向ける視線を変化させてしまう場合がある。

それで、というのはあまりにも脈絡ないけれど、今日久しぶり(と言っても一か月ぐらい)に最近仲のいい友人に会ったら、会話の流れに沿うつもりで発した言葉が「人間はメディアである」という言葉だ。今言い換えると、「人間は生きたメディアである」の方がしっくりくるのでそれで行こう。

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人間の会話は、コミュニケーションは、かなり複雑で巧緻なものである。逆に会話から確信できるほどの情報を見極めようとしても一歩間違えばそれを元にした行動が大きなすれ違いを起こしてしまう。人間の生の声というメディアは、歴史的にいえばものすごい説得力を持つことは知られている。昔のアテネの哲学者からカリスマ性で独裁者までのし上がったヒトラーなどが、そのよい例と言えるのだろう。

むしろ、ほとんどの「マス・メディア」と呼ばれるものは、考えを頭の中で形成してゆき、しだいに固まってゆき「声」という形として出てくるものを、さらに加工したり、何らかの方法で付加価値を付して作られるものだと言えるだろう。このカテゴリーに当てはまらないものは非言語的コミュニケーションであり、広く言えばその人間に付属する様々なものとその変化に意味を見出すものだ。

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「メディア」が「マス」になることに対して最も大きく立ちはだかる壁は、つまり時間と空間である。ラジオやテレビが開発される前までは、時間を克服するためにはエジソンの蓄音機でできたし、空間に関しては有線電信で大きな一歩を踏み込んだわけだが、その前を辿れば辿るほど原始的な拡声器に行きつき、空間を乗り越えるために発明された最初のは何かといえばつまり「文字」ということになる。

このように、メディアにはメディアなりの系譜があり、技術もその技術を使う人々の水準とそれを使う方法が逐次発展していったのだ。それでも、古いメディアが決して廃れることなく、今も健在である。むしろ、我々が毎日情報を得ているのは自分らの属する準拠集団であって、歩く街の風景にある。

人間が歩くことだけで、常に変化し続けることでその他の他人に情報を発信していて、またそれらの人間を大局的に見れば街の風景、そこにある店と同等以上に街の色を作る。我々がシロガニーズなどと言いふらすのは、彼ら彼女ら白金を歩く人、利用する人を一つの集団としてみなしてそのイメージを街の名前という記号に置き換えて連想しているに他ならない。

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このような文明史的、社会学的なメディアの見方の大家として知られるのが、大学の名にちなんで総じてトロント学派と呼ばれるマクルーハン、オング、イニスなどである。上のメディアを空間、時間を克服するものと定義づける考え方は、大きくいえばイニスの論によることを記しておこう。

メディアとはつまり、空間と時間という束縛を克服するための媒体、またはツール、と定義づけることができる。そのため、人間なら赤ちゃんでも生まれもって利用できるのは、せいぜい鳴き声と四肢、顔の筋肉を動かすことぐらいのものだ。その延長線上に広義での言語があり、それをまた文字と発声に分けることができる。朗読という概念は文字を一段上に置いてしまうけれど、もちろん言語は発声より生まれてきた。

そして声よりも先に、人間は「動くこと」にメッセージ性を見出すことを誰からともなく決めた。人間が常日頃変わっていくことは彼らが無意識に発している叫びである。それは極めて不確実ですれ違いの可能性が高いものだから、多くの場合は無意識に送り、無意識のうちに脳によって処理されるが、人が意図して「変化」することは、つまり人類初のメディアなのだ。

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ただ、このメディアの使い方は忘れられつつあるし、伝承しにくいから、やがてもっと効率のいいものに加工され、増幅される運命にある。なにせ言葉が全部意図したもののに対して、人間の変化においてどれが意図したものかは、外からはわかりっこない。たとえば今日会った知り合いが髪を切っていたとしても、それが誰にどのようなメッセージを送っているのか、それとも発信するつもりすらないのか、それだけでは分からない。

そういう意味では、メディア史はこの原始的な発信の改良の歴史であろう。果たして、私はこれを書いてどのようなメッセージをあなたに贈ろうとしているのか、それをあなたはどう受け取るのか、それすらを意識せずに書く文章は、果たしてメディアになりうるのだろうか?そんなことを思いながら書き続ける私である。

しかし、それはまた別のときの話。