万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

個人史の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

いよいよ、再来週はこの名前で以て高座に上がるということになった。いや、正確にいえば「ステージ」なんだろうな。それでもたぶん当時になれば、私はその場を「高座」にしようとするのだろう。場所の名所など、多数派の認知でしかないのだから、私の演技がうまければうまいほど、そこは「高座」になるのだろう。

と、いうのは噺のマクラの様なものとして、今日はここ最近平野敬一郎先生の「マチネの後に」を受けての内省の旅を振り返ろうと思って書くことにする。特に「未来を決めていくことで、過去は塗り替えられる」というテーマに関して、考えてみれば色々考える点があったので、この際だから自分の考えを整理するという意味でも文字で起こしたいと思った。

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生きていく上で、私たちは人にであい、旅に出て、モノを見る。それらにはもともと意味などないはずなのに、旅が終わってみるとやっぱりなにかの愛着がわいたり、苦い思い出になったり、ともかく一度かかわったものには無関心でいられる方が難しい。それをきちんと「自分という主人公のモノガタリ」の中に織り込もうとして、さも必然なことのように振舞おうとする。

とくに就活などの場では人生にブランクがあったら白い目で見られるのもそういうことだろう。最近始めたアルバイトでワーキングホリデーの外国籍の人がハローワークに行くときの通訳など請け負っていて、わりと容赦なく「この期間って、どうされてました?」という質問を投げかけられて、これをどう調整していくのかがなかなか大変だ。

こんな風に、我々は今までがやってきたことが全部有意義で、点と点をつないでいく過程でよりよい未来が待っていると思ってたぶん誰もが生活している。けれど、それって実際どれほど現実的な話だろうか。ヒッチコックの格言の通り「ドラマとは、つまらないものがあらかじめ切り取ってある人生だ」というのがあるのだけど、まさにこういうことだと思う。映画を面白いと思うのは、いいとこどりをしているからだ。

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そんなことを思ってたら、自分の今の生活が少しぐらいつまらないのは、むしろ当たり前のことのように思えた。劇的な変化に期待しない。そもそも少しだけ裕福と言っても普通の家に生まれ、背伸びして何とか日本で生活しているようなものだから、身分不相応な人生を期待するのも、という気もする。

今でも私は夢を捨ててはいない。いいと思った小説を、私は日本からオランダへ紹介したい。オランダの文壇を研究し、その逆をするのもアリとは思う。けど、その前には気づくべき事実がいくつもある。踏むべきステップがある。経験すべき挫折も絶望もあるし、未来が見えなくなることもあるはずだ。そして、自分が思う以上にそういう日々は無為に続くかもしれない。考えるのが苦手な私は、たまさかな閃きに期待する部分も少しはある。

大学というところは、個人史と人類史、そのどちらも突き付けられる格好の場である。子どもではない、しかし社会人でもない。知識とコネはまだまだ不足しているけれど、時間はたっぷりある。といっても、大学院に入るまではあと半年を切っている。その間、なのを読んで、誰と話しをするのか、それは個人史である。けれど、こういう選択肢を、ヒトラーもしている。ガンジーもしている。彼らも人間の命の裏側にある圧倒的なアンヌイと葛藤し、ああなったのである。今ではそれは世界史で習う内容なのだ。

だったら、当時の彼らと、今の自分を隔てる境界線とは、いったいどんなものだろうか?そんなものは、最初からないのだろうか? 彼らには、先見の明があった、というしかないのだろうか? それもそうかもしれない。けど、当時の彼らはそんなことに気づいていなかった。彼らだって、自分の個人史を、途中から最初からこうあるべきだと、自分で塗り替えているはずだ。

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私には政治的な意見は皆無とは言えないが、高校ではともかく「懐疑的であれ」と教えられてきた。それはそれで、残酷な教えだ、と今になって思うことがある。大学に入って、私はいわゆる左派の先生に多くあって、特に日本には「歴史修正主義者」が多くいると言われている。慰安婦問題など、甲論乙駁なのは確かだ。

けれど、「歴史修正」と言われたら、なんとはなしに「もともと正しい歴史を隠蔽されてしまった」という文脈で語られることが多いから、結局それさえも懐疑的に見てしまう私なのだ。個人史を自分で自己修正し、その上で有名になってしまったら外から見ているだけの赤の他人までもに修正されているのじゃ、たまったもんじゃないだろうなぁーって私なんかは思うんだが…

最後に、一つ逸話を。今日届いた個人史的なニュースでいえば、中高6年間、私に週二歴史の授業を受けていた先生が、どうやらいよいよ引退したようである。ほぼ40年間の間、彼は懸命に高校生相手に歴史の必要性、我々が今立っている位置からしか歴史を観察することができないということを、私が12歳のころから教えてきた。それこそ、私が生きてきた人生のほとんど半分を、彼はそのことを伝え続けている。

その意義を、今の私ならわかる気がする。個人史の中の一点にはなっている。それがその時分からなくとも、あとから意味を持つことはいくらでもある。むしろ、後から意味を持つ方が、人間は大切にしてしまうのだろう。人間には、過去の出来事を過大評価する仕組みが、予め備え付けてあるものかもしれないね。ともかく、今の私にはオランダの記憶が愛おしくて、高校の友達に声かけてしまうのだ。

しかし、それもまた別のときの話である。