万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

他人事の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

日本に来てはや七ヶ月、今日授業で「これはおそらくあなたたちにとって他人事だけど」と断りを入れてから話を進める教授を聞いたら、ふとこの「他人事」という言葉に耳を傾け、そしたら授業の内容よりもずっとこっちの方が気になりだして授業をほったらかして施行にふけっていた。

人間、しょせん起こることがほとんど「他人事」ではないだろうか?一旦そう考えてみれば、我々が毎日起きてやっていることが意味が分からなくなってくる。特にメディアを研究している私にとって、言葉にしてみれば各メディアが毎日血と汗と涙を結晶させて作っているニュースのあれこれは、まさに去年の私にとっても「他人事」であったはずなのに、気が付けばニュースを読む習慣が身に付き、その解説をする教授たちに耳を傾けている。

f:id:yorozuyawakarando:20191113180942j:plain

そんな時に私の手元に会った本が知る人も多いだろう、ハラリ先生の「ホモ・デウス」であった。彼の本のいいところは、極めて単純明快な命題に対して、多角的な解説を加えながらFood for Thought(思考の糧)を提供していることだ。今回はずばり「飢饉、病気、戦争の三つの死の要因を前提としない人間が次に取るだろう行為は、いったい何なのだろう」ということだ。命題だけでこれだけ面白いのは嫉妬してしまうほどだ。

確かに、我々は毎日を生きて、飢饉も病気も戦争も「異物」として見て生きている。台風19号の時、コンビニエンス・ストアからパンやらカップ麺やらが消えた時、人々は「ご飯がないのは仕方ない」などという態度を取らない。むしろ「なんで食べ物がないの!責任者はどこだ?」という風に憤った人の方が多いだろう。病気もいくら自然なものとはいえ「なぜ私なのだ」というだろう。戦争に至っては真っ先に政府を責めるか、自分から進んで参加していくのだろう。

メディアというものが元々持っていた一つの役割というのは、人間が一人一人こういう死活問題に対する対抗手段を与えることだった。医学書を読んで勉強すれば病気になったときはそれを直せるかもしれない。新聞に隣町に敵が攻め入ったと読めば今すぐ自分のいるところから逃げていくだろう。自分が目にするメディアのほとんどが「身近」なものに対するものだったはずだ。メディアの届く範囲も限られているが、人間の生活範囲も狭いのでそれはそれで間に合っていた。

f:id:yorozuyawakarando:20191113181111j:plain

人間の行動がここじゃない場所、今じゃない時間を前提として行われるようになったのは、いつなのだろう。換言すれば、「趣味」の誕生とは、いつだろうか。ハラリの言う通り、21世紀までの人類の歴史の中、朝起きてまず考えるのは「今日何をしよう」などではなく「今日どうすれば生き延びることができるか」ということだ。そのためにご飯を食べ、水を飲み、仕事をしてしばらく生きていけるための金を得る。もっと前でいえばそもそも毎日ご飯が食べることもできず、それを作ることが人生の大半を占めていた。

1899年にヴェブレンという人が書いた「有閑階級の理論」という本が出版されている。この有閑階級はつまり、一般人と比べ経済的・権力的な要因から、自分の生存維持のための行動を行わなくて済む人たちのことである。当然、メディアを「身近な問題に対抗するための手段」ではなく、「趣味」や「暇つぶし」のために典籍を繙き、詩を書いたり、行くこともないのに遠くの国の話を読んだりするのも彼らであった。平安の貴族も、中世ヨーロッパの宮廷の王様も然り。

ただ、おそらくヴェブレンの時代にだってすでに中産階級の中にも「暇」のある人々はいた。そもそも小説という代物は生存維持のために何らかの役に立つものでもないから、この話題は私にとってだって他人事ではない。いつしか人類(というのも、欧米をはじめとする先進国)は一億人有閑階級とまでは言えないが、一人の人間の毎日に「余裕」があることを前提にし、人の生涯を考えるようになった。

f:id:yorozuyawakarando:20191113181151j:plain

別の観点から見れば、一旦「生き延びる」ための物理的な障壁を覗くことでようやく「精神的健康の維持」に目を向けるようになった。国という制度も同じように、元々は人々が集まって生き延びるための集まるであったにもかかわらず、今でいえば「いい政府」は人命を守り保障するだけではなく、人権にまで責任を持たされるようになった。

三国時代、中国で起こった黄巾の乱の主な原因は、中央政府が人々の食料を担保できなかったことだが、今現在香港で起こっているでもはそんな問題などとっくの昔に解決したと言わんばかりに「民主主義の担保」を理由に起こっている。それもそのはずだ。千年前、二千年前に一人の人間が動く範囲はとてつもなく狭く、今の人から見ればその人の人生はさぞや「退屈」に映ったのだろう。

f:id:yorozuyawakarando:20191113181236j:plain

今我々は起きてテレビを見てツイッターで誰それが結婚した、別の人が麻薬をやったなどの芸能ニュースを見たりする。世界半分ぐらい離れたアルジェリアやナイジェリアでデモが起こって、何人か亡くなったことを知る。関心のあることは、いいことが起こればわが物のように喜び、悪いことが起きれば義憤に燃える。それはつまり、他人事ではないということなのではないだろうか。

人が死ぬとき、その死事態を我々はいつしか「人類に対する犯罪」のようにとらえることになったとハラリ先生は伝える。なるほどそうだね。死が異物であるのなら、誰かが死んだことを防げたという前提があるならば、防げなかったことには理由がある。責任者がいる。仕事を怠った人がいる。

十分にご飯が食べることを手に入れた人間は、次に何を求めるのか。それは精神の充足だ。来世紀、いや、今世紀、今にも「私が不幸なのは、あなたのせいだ」といわんばかりに真面目な顔をして人類に言葉を投げかけるだろう。それとも、それは既に何千人の人が、歴史の片隅で嘆いて呟いた言葉なのかもしれない。

そんなことを考えている私も有閑階級なのだろう。だからこそ、他人事でも関心を持つことができるわけだ。対岸の火事とよく言うけれど、こちら側も燃えていればただの火事だ。自分の方が平気だと思うからこそ、他人に手を差し伸べることができる。ならば、やはり先にかじを鎮圧できた方から助けていくべきなのだろう。

しかし、それはまた別のときの話。