万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

「無心」の話をしよう

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みなさん、疲れてはいないか?寝ても寝ても取れない疲れが溜まってはいないか?
大方それはストレス性のものなんだろうと素人ながら思ってしまう。一度は日本語と臨床心理学を天秤にかけて将来を考えていた時期も合ったぐらいだから、心理学などにはやっぱり興味を持ち続けている。しかし、学術的ではなく、あくまで現場としての、である。そこで先日読了した「空中ブランコ」という、奥田英朗の小説のうまい例を混ぜて、色々考えを述べることにする。

人間には誰しも限度という物がある。身体的は勿論、精神的にも途中から「疲れている」と自覚できるときもあれば、全部終わって一度座ってみて、緊張が解けたとたんにまぶたが重くなり「あ、自分は疲れていたんだ」といったような形の感覚を経験した人はいくらでもいよう。

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特にひとつのことに向けてひたむきになればなるほど、このようなストレスは溜まってしまう。そもそも「ストレス」という単語が何を意味するかというと「負担」や「圧力」などの言葉が適当だろう。そういうものだから、ストレスは日常をいけていく上で生み出されるごみのようなものなのだ。例えて言うなら、ストレス発散できていない人間は、精神状態だけで言えばゴミ屋敷に住んでいるようなものだ。

ゴミ屋敷に住んでいるわけだから、いたるところにゴミが邪魔になったりするから、以前届いていたはずの棚にあるものに手が届かなかったりしたり、床に置いたゴミにこけて意外なところでしくじったりする。寝ることは勿論大事である程度の整理はできるが、あくまで起きて同じ状況にい続けるなら、掃除する暇もない。まさに悪循環だ。

これらの比喩はあくまで自分のものなのだが、奥田さんの小説を読んで一つキーワードに思い至ったのだ。それはタイトルどおり「無心」なのだ。心なし、とはかくが要は無意識、意図せず、精神を使わずに何かをすること。ある人にとって、それは普段自分の精神にかけているブレーキを、一回無理やりはずすことだ。ある人にとって、それは運動することなのかもしれない。今の私にとってそれはブログであり、配達物の整理であり、アイロンかけである。

これらのいい点としては頭を大して使わずに、無理をせずに、自分の時間に余裕を持ってできること。そしてその反面、実際に残る「よい結果」があるということ。仕事を頑張ったりして躓いたりしているときは全く違う単純労働に励み、「無心」に身も精神も任せてはいかが、という心理学の全くの門外漢からのささやかな提案である。それであなたの頭の中のゴミが少しでも片付くものなら、本望だ。

しかし、それはまた別のときの話である。