万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

能力試験の話をしよう

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昨日はまたまた去ってゆく留学生友達の送別会のような会に成り行きで参加して、とうとう帰れなくなったと思ったので友達のところに厄介になった。久しぶりのライデンでの朝はすがすがしく、そもそも日曜日のライデンを今までほぼ経験してこなかったからなにかと新鮮だった。新鮮といえば聞こえはいいが、店が閉まっているわ、成り行きでとまっているから日用品がなかったりするわ、全部いいとはいいがたい。その上厄介になったところの友達が珍しく寝坊してたから3分の間に荷物をひっくるめて路上に出た。

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しかし、昨日も帰れないわけではなかったが、どうせ明日ライデン行くから、ということでお世話になることにした。何かというと今日は年に一回行われるJLPT(日本語能力試験)の日である。友人や知り合いからよく驚かれるけど、私は今までの大学生活でこういうテストとは一線を引いて生きてきた。それも意図があったわけではなく、ただなんとなく、面倒に思えたからである。こうやって日々ブログを書き、小説を読み、ドラマを見て日本人友達と交流をし合っているのだから、今までの土台を補強するのに十分な学習できる環境にいるから、というのが正直な考えだ。

JLPTというものだけでなく、日本人、ひいてはアジア人は往々にして「資格」というものに絶対的価値を与えたがる。とりあえずこの試験を合格してから話を聞こうという、最低のラインとしての資格がはびこっている気がする。車の免許ならともかく、資格取らずとも言語を流暢に話せる人もいっぱいいるわけで、資格を持っているからといってその言語を仕事、または研究の環境で使えるとは断言できないだろう。なにせJLPTなどは口頭試験がないからだ。資格を持って期待されることと、その試験で何を試されていて何のために作られたのかとは、大きな乖離が生じていると思わざるを得ない。

そんなことより、実際話してみて、自分の社交能力、発想力、言語化能力こそが大事だと思う。JLPTなどは土台でしかなりえないし、それに土台以上のものを期待するものならいずれかは裏切られた気持ちになるときはくるだろう。潜在能力はやはり引き出してこそ意味があるものだから、爪を隠す鷹などは私にはただの能無しだ。酷なようだが、本領発揮できなければそれはそこで終わりだ。「本当の私はこんなんじゃない!」と叫びたくなることは私にもあるわけだから、耳に痛い話ではあるけれどもね。

ちなみにオランダの状況から言えば、全国的な資格よりは、会社の人事が使っているウェブテスト(アウトソーシングも可)などに重点を置いているように思う。それこそ土台でしかなりえないことなんだろうけど、これの場合はそれ以上のことを期待されているといったことはおそらくないからまだましだと言えよう。

大学を出ても試験にさらされるとはおそらく誰も望んではいまいが、ここは腹をくくって頑張るしかないとも思う。今日はN1で、来週は大使館のほうの能力テスト。さて、うまく切り抜けるだろうかな。

しかし、それはまた別のときの話。