万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

家の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

ここで一つ、眼を閉じて考えてみてください。皆さんの理想の家、というのはどういうところなのだろうか?瀟洒で白亜でできた世田谷区のマンション?軽井沢の別荘?ニューヨークの中心街のペントハウス?大きな庭のある洋館か日本家屋か?暮らしのほどに、色んな住み方があり、家のカタチがある。もっとも、皆さんがおそらく読んでいるであろう鴨長明の「方丈記」ほど、今の家はそう変わったり移築したりしないが。

私はと言えば、最近シェアハウスのような家がいいかな、なんて思ったりしてる。もっとも、実家もつくりから言えばシェアハウスなどとはそう変わらないわけだけれど、さすがにシェアハウスでは勝手に他人の部屋に入るものではないから、精神的な意味では違う。大きくて豪華な家より、自分をしっかり保てる場所がよいだろう。

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家という場所は物理的な大きさや物の多さのほか、「自分のもの」「自分でない人のもの」「自分のものではない」などという、精神的な区分ができちゃうわけだ。ある意味で言えば、どんなに家が広くても、「自分の空間」というものがなければ、小さく感じてしまうし、逆にどんなに小さくても、家全体が自分の所有物というか、生きる空間であるのなら、それは小さく感じることは多分ないだろう。

それとは裏腹に、私が京都から帰ってきて感じたショックは壮大だった。なぜなら、12平方メートルと言う小さな自分の世界から、自分の実家という大きすぎる空間に転移したような感覚だったからだ。実家は勿論その性質ゆえ、所有者でなくともそこで生まれて育ったものならばよほどのことがなければ、自分の空間だ。大きすぎる「自分の空間」を持ったとき、どうやら人間は戸惑うようだ。

この腺でいえば、京都での生活はまさに寮の部屋と、大学の方の部室の二つの空間を、私は自分の空間と認識していたように思う。家というのは要は上の通り、自分のもの、自分が親しみなじんでいる空間であるから、これも当然だ。その上、「暖かい」と思うのは、実家を思い出しているからではないだろうか。実家と言う物理的な空間よりも、そこにある自分の認識が大切だろう。暖かい家族に育てられれば、家は「暖かい空間」なのは当たり前だけれど、その逆も然り。

少し話は逸れるが、同じ延長線上で言えば東京などの街で心細いと感じる人はつまり、「自分の空間」が不足していると私は訴えたい。それに仕事や日々の生活上、中々家に帰れない日が続いてしまうと、この暖かさ欲しさに別の家を求めるようになり、特に酒場などがその役割を果たしてしまうことも多いだろう。

自分の住居が家でなくなるときは、人間として一つの大切なよりどころを失っているわけだから、大切にせねばなるまい。けれど新しい家が悪い方向に持っていくものなら、別の家を作るしかあるまい。私にとって、逸れは部室だったし、ライデンでは大学のあるビルがたまり場だった。卒業とともに色々よりどころをなくした今は、新しい家をそろそろ探したいものだ。

しかし、それはまた別のときの話。