万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

夢の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

将来の夢って、何だったんですか?
さいころ、何になりたかった?

そう問われても、窮してしまう人種なんです。いわゆる夢無し族。俗にいう陽キャでも陰キャでもなく、むしろそのはざまをさまよいながら育ってきた人間の一人です。
考えてみれば「何になりたいのか?」なんてのはふざけた質問だって思う。消防士になりたい、宇宙飛行士になりたい、画家になりたい、大統領になりたいとか… 
じゃ、なったらなったで終わりかと問われれば、それはもちろん違うだけど、子供の頃にはそれは許されてしまう。まだ世界のごく一部しか知らない、近所と学校とおばあちゃんの家の3点の往復の生活なのだから。

けど、大人になるのにつれて、自分が世界と比べていかに小さいかを知る。自分の世界が小さいことを、自分の夢がどれだけ大きくて漠然としているかを。宇宙飛行士になるための下準備はもちろん大変だけれど、なったらなったでそれが一生続く。決して楽ではない仕事が。でもそれが夢だったから、自分で決めて、歩んだ道だから何とかやっていけるという理想論は、そう信じ切っている人には確かにそうだろう。なにかになる、っていうのは大したことだ。

f:id:yorozuyawakarando:20190222045644j:plain

だけど、皆が皆小さいころから強い、確信めいた未来への希望を持っているとは限らない。子供はもちろん夢をいっぱい持つしね。パン屋さんにもなりたいし、ホテルもやりたいし、先生にもなりたい。それを全部同時にしようと思えるからこそ子供だろうね。大人になれば、夢を持つということは選ぶことなのだ。面白いと思ったことを一個選び抜き、それを貫く。極める。途中で頓挫するが会っても、一旦は決めたものだろうからそれなりの覚悟がいる。

夢無し族の私からはどうしてもそう映ってしまった。強い意志と決断力を夢へひたすら歩く人たちが眩しくて、憧れたり劣等感を覚えたりしていた。でもあっちから見れば私の方がむしろそう見えたのではないのかって、後から思うようになった。気づかぬうちに日本語を習得し、今となってはそれなりに自由に、意志のままに操れる日本語。それは端から見ればすごいことだし、夢に向かってひた走るようにみえなくもない。

けど人生に道は一つではないから、人間はいつも将来に悩む。自分が今やっていることがあの夢に繋がるのか、そもそもその夢を追う価値があるのか。でも決めたからと言って扉が閉ざされることなんて、実際そうそうない。時間が有限でも。

廃れる神あれば拾う神あり、というように40過ぎて新しい夢、新しい生き方に出会う人もいるのかもしれない。私もそういう人間でありたいと思う。

でもそれなら私と彼らの決定的な違いって何だろうね。そうなるためにどうすればいいのか。自分の能力を評価されるとき「好きなことをやってただけ」とか「たまたま身に合っていた」と卑下するし、あまつさえ「特に自分の意志で選んだ実感がないから」なんて弱音を吐く。そういう状態を、新しいことを受け入れられない状態をどう改善するべきだろう。まずはこう考えてみることにした。

自分の意志の弱さは、本人である私は嫌というほどに知っている。何もしなかったことの数などはもう忘れた。けど、それは相手も同じだ。相手を考え無しに褒めるときは、相手も自分と一緒でそれを思い返しているのかもしれない。なんせ相手の思考と一緒で、意志もはっきりしない。何を好きでやって、何を嫌々やっていて、心の中で何をどうしても成し遂げたいのか、当の本人もわからなければ外面見ただけじゃ分からない。

だからこそ人間は物語を欲しがるのかもしれない。自分自身の気持ちを確認するために。自分がなぜ自分がやっていることをやっているのかを正当化するために。もしかすると気持ちってそういう曖昧なものなのかもしれない。みながそうやって自分の行動と気持ちの折り合いをつけながら毎日の行いを決めているのなら、将来に一歩ずつ向かっているのなら、そうそう余計に自分を卑下することもない。向こうはただただ、諦めがいいか、そう映るかのどちらかなのだから。

好きな自分になるため、つまり夢を叶う自分になるためには、自分を生まれ変わらせる覚悟でいないといけない。それはそれで一つの夢なのだ。なるものではなく、一生続く一つの使命だ。まあ、差し当たっては私も腹をくくって、そろそろ夢を一つに絞らなければ、って感じだな。グズグズしていないで向きを決め、再スタートしなければ。4月までは悩みつづけることだろうけど。

しかし、それはまた別の時ときの話。