万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

またカルチャーショックの話をしよう

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外国人として母国でない国に滞在すると(この言い方はすでに重複しているように思うのだけれど)、必ずと言っていいほどカルチャーショックという現象に出遭う。文化と文化の間には生活環境によって大きな溝が生まれることがあり、文化が衝突するのはある意味必然的なことだ。学部のときに読んでいたBarthという人類学者がいるのだけれど、彼は色々面白い提言をしてくれている。それを手繰っていきたいと思う。

まず、文化とは何だろう?文化の担い手はもちろん人間であるが、文化はたとえその民族集団を形作ったが遥か昔に消えたとしても、彼らが作った芸術や民芸品、はたまたはただの住宅でも古代中国やトルコや「何々文明」という名前で呼ばれる。彼らの生活習慣などを推し量ることはできるが、それを立証するのはあまりにも傲慢と偏見に満ちている。

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ならば、今現在生きている我々はどうだ?私はもちろん国籍上、法律上ではオランダ人で、当面それを変えるつもりもない。オランダの「文化」の中で生まれ、オランダ人らしいモノ、ヒト、コトに囲まれ、オランダ人的社会通念、生活習慣の範囲内に沿って生きてきた。そうでもしないと、自分のコミュニティーの中でも浮いてしまう。日本でいえばいわゆる村八分だ。

では、日本語を勉強するのはオランダ人らしくないのだろうか?これは明らかに違う。オランダの教育システムに由緒正しきライデン大学という教育機関があり、そこにある日本学科はヨーロッパで一番古いものだ。これをオランダの文化ではないというのは常識的に考えておかしいと思ってしまう。

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一旦、Barthに戻ってみよう。彼が言うには、文化間の間に生まれる溝はある種、必然的なものである。なぜなら、文化と文化を差別しなければ、個体としての「文化」、延いては「国」「国家」などという概念は認知できないのである。国と国、文化と文化の間に差異があってこそ、それを文化として認識できる。また、差異を認識できるには、五感で感じられる違いがなければならない。ある程度の枠組みは、地理的な環境、また今置かれている政治的な状況によって決められる。それ以外の差異、つまり人間同士が自分のグループと他人のグループを分けるために意図的に作るものを、「伝統」と呼ぶ。

しかし、伝統が意図的に、構築的に作られたものとは、それを常識として見て生きている我々は認識できるのは難しい。そのため、我々の文化において当たり前にある概念ですらも意図的に作られたとは、考えもしない。日本では四季などが例に挙げられがちだけれど、ここではむしろ「主食」という概念を指摘したい。日本の主食は米、というのがあまりにも当たり前すぎて、当然世界各国にも「主食」というものがあると、思ってしまう。実際は近代社会で食料が比較的に入手しやすく、一つのものを主食とする必要は、まったくないと言える。ゆえに、「主食」が伝統的な、日本的な概念といえる。

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かといって、「主食」は日本独自のものと言われれば、それも違うだろう。中国、東南アジアの文化はやはり近しい概念を持っているであろうし、社会通念も地理的に離れた国とは違う。ただ、こうやって「伝統」を作ることで、自国と他国の差異を強調するのは確かだ。

問題は、この差異が優劣に発展するところからだ。「彼らは違うから戦争を仕掛けよう」は説得力に欠けるけれど「彼らは私たちが大事にしているものを大事にしないから、我々の方が勝っている」というのは古代の世界で有力な理論構築だろう。戦争が必須とは言えないけれど、文化という、差異によって形成されるシステムの中に内在されているのは確かだ。

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先日、一人の友人と話していて、こういう言葉を言われた。

「いろんな国に住んできたけれど、会社に入って人生で一番大きなカルチャーショックを経験した」

国という名の文化はかなり大きくて、それに内在する色んなサブカルチャーが存続できるだけの余地はいくらでもある。法律を守り、金を稼いで、使って消費していけば日本で責められることはそんなにない。それに比べて、会社の境界線が囲む地理的、精神的な面積はあまりにも狭く、自分とは違う生活習慣を持った人間が大半であれば、重苦しくなることは目に見えている。

ならば、自分にとって心地いい会社を選ぶか、会社の外にも居場所を作るか、二者択一なのだろう。これは終活をする人々にとっても、ぜひ提言していきたいし、自分に対しても言い続け、感が続けていきたい問題である。

しかし、それはまた別のときの話。