万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

中国の話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」!

このブログを書いてきてそろそろ100日だが、いかんせんツイッターでしか発信してないので、読む人はある時期を境にぴたっと減ってきている。そもそも自分の自己顕示欲のために書いているのでそれでもよいが、どうせそうならもっと赤裸々に自分の暴露話でもしてすっきりしようと思った。

今日は両親が旅行に出て四日目、夏ばてと風もあいまってか、明日の朝も早く起きなければならなくなったわけだから、申し訳ないと思うも自分で作った予定をドタキャンして、家で黙々と自分の好きな料理を作って、Netflixでも見ようと思って適当にかけた中国の今年の映画「后来的我们」(日本では「それからの僕ら」と言う意味だが、出ているのだろうか?)を鑑賞した。

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これがもう度ツボ。自分にぴったりの映画過ぎてもう飽きた、見るの止そうと思うと同時に離れられなくて、エンドロールになってもうぼろくそにないてどうにかなりそうだった。あんなになくのはすくなくとも一年ぶりだろうな。北京に憧れる同郷の男女二人が惹かれあいながらも友達として過ごし、恋人とすごすことになっても別れ、そして分かれてもお互いを気にかけ、縁が切れない話。そしてその何よりもの縁が二人がであった春節、旧暦のお正月。もういい話やわなー。

そもそも、私は中国が好きだったはずなのに、いつしか日本の方に流れてしまったのはなぜだろうな。首都に憧れるのは中国人も日本人も同じはずなのに、中国はやっぱり大陸だからその思いのたけは日本の比ではない。大学二年生に片思いしていたあの子、京都でであった石家荘出身のあの子も、この映画のよさを分かち合えたらなんて、もう会わないだろうと知っていても考えてしまう。そしてひやりと心が冷え込む。

私は中国語を独学でやっていたのはせいぜい、あの二人の存在があった体と思う。どうせ私なんか、怠け者で自分以外の理由、モチベーションがない限りは到底頑張れない。好きな物のためにだとしても、頑張り方を探すなんて大変なことをするより、現状維持がどんなに楽か。でもやっぱり好きだから、どうにかして頑張りたい。

それなら、自分から探しに行けばいいじゃないかな。そういう、頑張らせてくれる存在を。それが人のためでも、国のためでも、映画を見た後の涙のためでも、そのためになら頑張れると思えるものがつまり正しいのだ。そのためなら手段を選ばずつっぱした方が正解だ。今日の涙の意味がつまりそれだと思う。今日流した涙は明日からまた頑張れるための涙だと、私は主張したい。とりあえず、中国行ってみたいなー。

しかし、それはまた別のときの話。