万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

非言語的コミュニケーションの話をしよう

ようこそ、万屋「和華蘭堂」へ!

本が好きな私は、文学作品の中で行中を読み、文脈を読み取り、作家が何を言わんとすることをある程度できるようになっている。この技術は、本を一杯読めば誰でも習得できるものだ。特に推理小説の類では、これによって読者が自分なりに推論し、終わりを推測しようとする。それが推理小説の醍醐味という人もいる。

けれど、私は決して推理小説の落ちやトリックをうまく破れている、という話ではない。ギョウチュウを読むにはただ「読む」技術以上に、「人を読む」技術が必要とされる。別の言葉で言えば、IQだけでなく、EQも高得点を持たなくてはならない。人が一般的にどう考え、どういう動機で動き、人付き合いの機微を理解しなくてはならない。その二つを合わさって初めて推理小説を読むプロになれる気がする。

しかし現実はどうだ? 本の中には当然文字情報しか含まれていないのだけれど、その本を取り囲む環境の中には文字以外の情報がいっぱいある。触感、匂いなどの五感意外にも、それを見て感じた感情、それとつながっている思い出の類などもある。本というものは非言語的な面から見ても、様々な方角から我々に向かって訴えかけている。

そして人間もまた然り、いや、それ以上だ。小説の中の人間はどうしてもキャラクターから抜け出せないもので、そのキャラクターと向き合える方角がどうしても限られてくる。台詞の数にも限りがあるし、それが表し得る感情も無限に近いけれど、実物の人間が呼び起こすほど無限大にあるはずもない。

昨日はバイトの初日だった。初日だからまずはバイトのいろはを教えてもらわないと仕事にならない。バイトに使う服をもらい、現場の倉庫に立ち、どうやって学ぶか。それはつまり、人を見るしかない。勿論細かいところは上司に効いてもいいのだけれど、即戦力になるためには見よう見まねで覚える方が断然効率がいい。

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例えば、こういう状況だ。「荷物」と大声が上がり、倉庫の前の方に人々は皆集まる。大きなドアが開け、入った人がどんどん荷物を奥に引っ張っていく。しかも、自分と同じ入ったばかりの子もそうする。なら、正解は勿論、自分も手伝うことだ。小さな間違いを起こしても良いから、とりあえずやってみる。それが非言語的コミュニケーションだ。口ではなく、身体全体でメッセージを送る。そしてそれは、誰もがいつもやっていることだ。そのメッセージを受信しているか否かの違いだ。

人に新しい情報を言語という形で教えてもらうことは勿論悪いことではないけれど、唯一正しいものでもない。それを長いこと忘れていたのは確かに私だ。だからこそ、このバイトをやる意義があると、自分に言い聞かせる。さすがに連日出勤は厳しくなりそうだが。

しかし、それはまた別のときの話。