万屋「和華蘭堂」

きまぐれに、というかその日の気分で毎日話題決めて徒然と書きます

最低限の文化的な生活の話をしよう

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今日の話題だが、実はだいぶ前から頭の片隅で燻らせているもので、未だに整理できてないところが多々ある中、今書いてみればなにか打開策が思いつくはずだという強迫観念に取りつかれ今書いてみることにした。ある意味でいえば、これは民主主義の限界の話であり、現代私たちが抱いている理想の終着点の話であると言える。

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皆さん、啓蒙主義、という言葉を聞いてどう思われるだろうか?「あ、高校の授業でやったなぁ」という人、日本には一定数いるはずだと思いたい。片方では、フランスの方の啓蒙主義で、百科全書を起草したディデローとダランベールを思い浮かべることができよう。その時の人類が有史以来、広義での世界に対して何を知りえたのか、その研究結果を全部一つの本に集めようとする暴挙こそが「百科全書」である。もっとも、一冊などといわずに100冊あっても足りないはずだろうけど。

一方で、日本人として啓蒙思想と言われれば明治の思想家の福沢諭吉らが真っ先に思い浮かべるのだろう。それもそのはずだ。啓蒙思想は、我々が生きているこの現代の民主主義の根底にある考えであるからだ。民衆を教育し、自分らで十分に物事を考慮した上で政治参加してもらい、それらの意見を合わせて民意とし、その代表として衆議院参議院の両院の代表が決まる仕組み。また、その政治参加のための判断材料を提供するのは学校だったり、美術館・博物館・図書館などの公共施設だったり、広義でのメディアである。

こういえば聞こえはすこぶるいいが、実際はエリート層による思想であるという批判も当然ありうる。彼らが教育と言って、実は国民を騙す形で政治参加に興味をなくすようにしているなどという陰謀論めいた言説も探せばおそらくあると思う。ここに一つ、かなり説明しにくい矛盾点が埋もれているのを、皆さんお気づきだろうか?

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民主主義のゴール、それは皆が平等に政治参加を許され、社会全体の水準を一定以上にするための国家運営の一つの方法といえよう。私にとって、「最低限の文化的な生活」には、この「政治参加に対して前向きで、自由に考えるほどの余裕を持つ教養」というのを含まなければならないのである。ただ政府から与えられるばかりの「文化」に触れるだけではなく、自分らもがその文化の担い手となり、将来どんな「文化」を享受できるのだろうと胸を躍らせ、思いをはせる積極的な「文化」との向き合い方をしてほしいと思う。

ただ、今現在世の中はまだまだ平等ではない。上に述べたような教養どころか、そもそも大学へも行けない人がまだまだいるのだ。国家の一番の義務である「国民に最低限の文化的な生活」を保障することは決して容易なことではない。民主主義をもっと完璧な形にするためには、国民全員が上のような教養を持った上で政治参加すればよい結果はでるはずだと、それなりに誰も納得はできるはずだが、今現在はもちろんそんな余裕がない。

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これこそが最初で最後の矛盾点。完璧な民主主義を作り上げるために、民主主義はそもそもその前に完璧であらねばならない。まるで中世の哲学者が神の証明をしようとしているような議論になり、話は堂々巡りになる。どの水準を以て政治参加を許されるのかというのが大きな問題になるけれど、これに対しても明確な答は得られない。18歳から投票できるようになったからなんだというのだろう。政治参加の水準だけを気にすれば免許制にすればよい(中国の科挙はこういう側面もある)けれどそうすれば益々投票率が減るだろう。

それどころか、免許制にすることで、今現在「最低限の文化的な生活」とやらを享受していない者たちの政治的な発言力が真っ先に剥奪される。その上、金銭的に不自由こそしていないが、政治に興味を持つための教養のベースを身に着けるほどの余裕を持たない中流の人々も政治参加率が激減し、結果的に上流階級のみが政治に参与するのが自然の流れなのだろう。

ここでいう「余裕」とは言ってみれば拘束時間と自由時間の比例である。精神的な面も計算に入れるとこれらの概念の定義も難しいけれど、上流階級の人々がより自由時間を持つことができるのは想像できるはずで、歴史的にももちろん彼らは尊大なる無為というようにその時間を教養に当てることができた。

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尚、アメリカのティチュナーという学者が提唱している知識乖離の原理を信じれば、この教養のギャップは益々大きくなるだろう。知識と教養の違いがあるとすればそれはその応用の幅であるのだろう。どちらも極めれば実践的であるけれど、正しい教養は一般人が手に入れるよりも広く深いものと筆者は思う。

ならば、知識乖離のせいを極限まで辿れば、今余裕のない人間は益々変わりゆく世界に追いつくだけで必死になり「データ化社会」で生きていくだけで手いっぱいのに対して、元々余裕のあるものは進化論で言えばFittestになるのだろう。知識乖離の原理仮設が見せる光景、それは意識同士のSurvival of the Fittestである。そして、この世で生き残り、より政治に対する医師と知識を持ち得る人々、つまり「政治に向いている」のは、今現在余裕を持つ人々だろう。

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これが必ずし悪いことと筆者は言えないと思う。力を持っているからと言ってそれを私利私欲に死か使えない、性悪説のような考え方を好まないからだ。ただ、少なくともそのような政治の在り方は「民主主義」の理念とはズレており、啓蒙思想という面から見ても明らかに失敗である。「完璧な民主主義」を目指すのを諦めるか、知識乖離を受け入れるのかは同じことだろう。

ここに答えなどない。残念ながら、私には知識的な意味での上流階級にはなれていない。だから、精々こうやって考えを整理して、首席で披露することしかしないのだろう。だけど、新しい教養を手に入れることができるし、積極的に自己啓蒙を続ける所存である。そうやっていつかはパーフェクトでなくとも少しマシな世界にできたらよいと思う。

しかし、それはまた別のときの話。